長らく、私は宵から床に就いていた。
時には、蝋燭を消すや途端にまぶたがふさがり、「僕は眠るのだな」と思う間すらないこともあった。

マルセル・プルースト(1872-1922)作 『失われた時を求めて』――

巧緻で、美しく、哲学的示唆に富んだ「人類の『文学』の金字塔」と賞して過言ではない名作です。

しかし、そのあまりの長大さゆえ、手に取りにくい一冊(10冊~13冊)でもあります。

 

私の論文 <「存在と失われた時間」――プルーストの哲学的文学論と『失われた時を求めて』概図>

(早稲田大学第一文学部 フランス文学専修卒業論文/指導教官 芳川泰久先生 1999年)から、

この作品の精緻な構造を明らかにしつつ、未読の読者のための一助となることを目指して書いた

<『失われた時を求めて』概図>のパートを抜き出し、各篇の「あらすじ」としてまとめました。

 

悠久の「時」の中で、はたして人間は空しからざる位置を占める事が出来るのか?――

この大長編の結末に、プルーストは実に感動的で美しい解答を読者に述べてみせる事でしょう。

 

このページが、あなたと「見出された時」を結ぶ小径とならんことを願って。

長らく、私は宵から床に就いていた。
時には、蝋燭を消すや途端にまぶたがふさがり、「僕は眠るのだな」と思う間すらないこともあった。

マルセル・プルースト(1872-1922)作 『失われた時を求めて』――

巧緻で、美しく、哲学的示唆に富んだ「人類の『文学』の金字塔」と賞して過言ではない名作です。

しかし、そのあまりの長大さゆえ、手に取りにくい一冊(10冊~13冊)でもあります。

 

私の論文 <「存在と失われた時間」――プルーストの哲学的文学論と『失われた時を求めて』概図>

(早稲田大学第一文学部 フランス文学専修卒業論文/指導教官 芳川泰久先生 1999年)から、

この作品の精緻な構造を明らかにしつつ、未読の読者のための一助となることを目指して書いた

<『失われた時を求めて』概図>のパートを抜き出し、各篇の「あらすじ」としてまとめました。

 

悠久の「時」の中で、はたして人間は空しからざる位置を占める事が出来るのか?――

この大長編の結末に、プルーストは実に感動的で美しい解答を読者に述べてみせる事でしょう。

 

このページが、あなたと「見出された時」を結ぶ小径とならんことを願って。

長らく、私は宵から床に就いていた。
時には、蝋燭を消すや途端にまぶたがふさがり、「僕は眠るのだな」と思う間すらないこともあった。

マルセル・プルースト(1872-1922)作 『失われた時を求めて』――

巧緻で、美しく、哲学的示唆に富んだ「人類の『文学』の金字塔」と賞して過言ではない名作です。

しかし、そのあまりの長大さゆえ、手に取りにくい一冊(10冊~13冊)でもあります。

 

私の論文 <「存在と失われた時間」――プルーストの哲学的文学論と『失われた時を求めて』概図>

(早稲田大学第一文学部 フランス文学専修卒業論文/指導教官 芳川泰久先生 1999年)から、

この作品の精緻な構造を明らかにしつつ、未読の読者のための一助となることを目指して書いた

<『失われた時を求めて』概図>のパートを抜き出し、各篇の「あらすじ」としてまとめました。

 

悠久の「時」の中で、はたして人間は空しからざる位置を占める事が出来るのか?――

この大長編の結末に、プルーストは実に感動的で美しい解答を読者に述べてみせる事でしょう。

 

このページが、あなたと「見出された時」を結ぶ小径とならんことを願って。

長らく、私は宵から床に就いていた。
時には、蝋燭を消すや途端にまぶたがふさがり、「僕は眠るのだな」と思う間すらないこともあった。

 

 

第一篇「スワン家の方へ」

 


 この小説は「スワンの恋」を除く全編にわたり〈Je〉という一人称で語られる。
 しかし、全七篇の大長編の私小説もかかわらず、この〈Je〉=《私》の名前や、その時々の年齢などに関しては限定する描写はほとんど為されない。
 明らかにされるのは《私》が文学を目指していること。コンブレーに親戚が多いこと。パリに家があること――ぐらいである。

 第七篇「見出された時」で第一次世界大戦が起こり、全編を通してドレフュス事件(※1894年に起きたユダヤ人大尉ドレフュスへのスパイ容疑の冤罪事件)が描かれるので、物語の時代背景は十九世紀後半から二十世紀初頭だと考えてよいだろう。

 

 

 

第一部 コンブレー

 

 


長らく、私は宵から床に就いていた。 
時には、蝋燭を消すや途端にまぶたがふさがり、「僕は眠るのだな」と思う間すらないこともあった。

 

 《私》の「私小説」の態で、この小説は幕を開ける。
 眠りと目覚め、現在いる場所と過去にいた場所(の記憶)を、行きつ戻りつ描き始めた《私》は、幼少期を過ごした土地であり、彼の親戚達(祖父母、祖母の従姉である大叔母、その娘のレオニ叔母、アドルフ大叔父……など)が住んでいたコンブレーについての記憶を喚起し、その幼年期の記憶からこの物語は始まる。

 幼年期の《私》は繊細で依存症的であった。
 彼が寝付かれぬ夜、彼の気が紛れる様にと家人は彼の寝室で幻灯を行ってくれた。
「ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン」という女主人公が登場する中世の『黄金伝説』の幻灯は美しくはあったけれど、《私》の暮らし慣れた寝室のイメージ(そこが自分の存在する場所であるという確信)を揺るがすだけで、よりいっそう彼を悲しませるのだった。
 また、彼はママの「おやすみのキス」なしでは安心して眠ることができなかった。
一人で二階に寝に上がる彼の唯一の慰めが母のキスだった。キスをしてくれた母が寝室を去ろうとするとき、彼はいつも「もう一度キスして」と頼みたかったのだが、厳格な父母がそのような甘えすぎた要求を許しはしないだろうと《私》はいつもその望みを断念するのであった。(母のキスのもつ快楽と禁忌のイメージは、物語を通じて何度も想起されることになる)

 しかし「お休みのキス」はしばしば来客によって中止されることがあった。
コンブレーでの来客といえば大抵それは近所のスワン氏である。スワン氏はユダヤ人の株式仲介人の息子で、伊達な美術愛好家として上流社交界でもてはやされている人物である。
(スワンは時の寵児として一流人に登りつめ、そして凋落してゆく人物であるが、軽薄な人物としてではなく芸術を真に理解する可能性のあるシックな人物として描かれる。彼が凋落するのは、移ろいやすい社交界の価値基準のせいであり、後に見るオデットとの恋と不幸な結婚のせいである)

 ある夜、スワン氏の訪問のために「お休みのキス」なしに寝に上がらねばならなくなった《私》は召使のフランソワーズに母への伝言を頼むが却って母の不興を買う事になり、母はやって来てくれない。
あまりの悲しみに階下に降りようとした《私》は両親に見咎められるが、気まぐれな父の寛大な処置によって、思いがけず母に添い寝をしてもらえることになる。
 その夜、ベッドでジョルジュ・サンドの小説『フランソワ・ル・シャンピ』を読み聞かせてくれる母は、その小説の主題である捨て子フランソワと継母マドレーヌとの恋愛描写を読み飛ばしてしまうので《私》にはその物語がなんの話だかさっぱりわからないのだった。
「お休みのキス」と同じく、この一夜の安らぎは《私》の幸福の原風景となる。しかし注目すべきは、それが単に親子団欒の幸福としてではなく、恋愛の幸福の原風景として後に《私》に想起されることにある。この『フランソワ・ル・シャンピ』、後に大女優ラ・ベルマ(サラ・ベルナールがモデル)が登場する度に演じられるラシーヌの芝居『フェードル』など、母子の許されぬ愛の物語が『失われた時を求めて』の随所に挿入されている。 (「冒涜と快楽」「嫉妬と愛情」「失望と欲望」の相関関係はこの小説の大きなテーマであり、「聖なるものの冒涜」の原初的象徴として「母子の性愛」が用いられるのである)

 

 

 コンブレーでの記憶がしばらく語られた後、《私》の位置は再び冒頭に戻り「記憶」についての考察が再開される。以下は有名な「プチット・マドレーヌ」の挿話である。
《私》は成長しパリで生活している。コンブレーについての記憶は母との就寝劇以外もはや失われてしまった。そんなある日、出先から帰宅した《私》に母が紅茶とマドレーヌ菓子を出してくれる。
 マドレーヌを浸した紅茶を一口飲んだ《私》はえもいわれぬ不思議な感覚に襲われる。
 それは原因のわからない素晴らしい快楽である。
 その原因を探ろうと、《私》は二口目を飲む。
 しかし、そこには一口目以上のものは見出されない。
 三口目は二口目よりも少し劣ったものしか彼にもたらさない。
《私》は紅茶に頼るのをやめ、最初の一口を飲んだ瞬間に思考をさかのぼらせて内省する。……その努力を十回 ほど繰り返すがどうもうまくいかない。しかし、突如として《私》の心に、ある味覚の記憶がよみがえる。それはコンブレーで日曜日の朝、レオニ叔母に「おはよう」を言いに行くと出してくれる菩提樹のお茶に浸したマドレーヌの味だったのである。 その味覚を思い出した途端、《私》は次の様にレオニ叔母の部屋を鮮やかに思いだすのだった。

 

 

 水を満たした陶器の鉢に小さな紙切れを浸して日本人が楽しむ遊びで、それまで何かはっきりしなかったその紙切れが、水に浸けられた途端に、のび、まるくなり、いろづき、わかれ、しっかりした、まぎれもない、花となり、家となり、人となるように、スワン氏の庭園のすべての花、そしてヴィヴォーヌ川の妖精、そして村の善良な人たちと彼らのささやかな住い、そして教会、そして全コンブレーとその近郷、形態をそなえ堅牢性をもつそうしたすべてが、町も庭もともに、私の一杯の紅茶から出てきたのである。

 

 

《私》は時空を超え、物語は再びコンブレーへと戻る。

 

 コンブレーはその中心に教会がある宗教的、神秘的な町である。
その教会にあるタピスリーには、エステル(ペルシア王アハシュロスの妃となったユダヤの婦人)が王妃の冠をいただく絵柄が描かれている。古い言い伝えによると、アハシュロス王にはあるフランス王の顔立ちが与えられ、エステルにはそのフランス王が恋をした「ゲルマント家」の一婦人の顔立ちが与えられているという。そして教会のステンドグラスの隅には昔のゲルマント領主悪公ジルベールをあらわしているものがあり、その祖先は《私》が昔幻灯で見た『黄金伝説』の「ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン」だというのだ。
 それらの伝説が《私》の心に「ゲルマント家」という大貴族の一族の神秘的なイメージを植えつける。

 また、コンブレーの《私》の家からは二本の散歩道がのびており、一方はスワン家の所有地を通るメゼグリーズ=ラ=ヴィーヌズの方、いわゆる「スワン家の方」で、もう一方が大貴族ゲルマント家の館につづく「ゲルマントの方」である。
この二つの「方」は極めて対蹠的であり、象徴的である。
「ゲルマントの方」は中世の伝説から時をたどり続けてきた貴族の「歴史的時間」の方向で、「スワン家の方」は根無草的な在り方を余儀なくされてきたユダヤ人の、歴史にとどまることのできない「個人的生命の時間」の方向である。この二つの方向の空間的・概念的断絶は以下に引く一文にうまく表現されている。

 私は、その二つを隔てている間隔に、キロメートルで測られる距離以上のもの、その二つを考える私の頭脳の二つの部分の間にある距離――二つを単に隔てるだけでなく、引き離して別の面に置くあの精神の内部の距離の一つを設けるのであった。
 そしてその境界はいっそう絶対的なものになった。……というのは、同じ日の、同じ散歩に、二つの方どちらにも出かけたことは決してなく、あるときはメゼグリーズの方へ、またあるときはゲルマントの方へ行った、そんな私たちの習慣が、その二つを互いに遠くへ引き離し、互いに不可知の状態に置き、別 々の午後という、双方の間に流通のない、封じられた壷と壷との中に、その二つをいわば閉じ込めていたからであった。

 
――しかし、プルーストは『失われた時を求めて』の最終章で、全く断絶されたこの二つの「方」をある方法で統一させてしまう。

 

 

 スワンが結婚して以来、《私》の家人はスワン家の方には散歩に出掛けなかった。
なぜなら彼の妻オデットは以前高級娼婦であったといういかがわしい経歴を持つ女性だったからだ。スワン夫人とその娘ジルベルトはコンブレーではスキャンダラスな目で見られていた。
 ある日、スワン夫人と娘がランスに発つというので、《私》の祖父と父は《私》を連れてスワン家の方へ散歩に出かける。サンザシの花の香りに恍惚としながらも、《私》は祖父と父の見当が外れてスワン夫人とその娘に出くわしたりしないかと密かに考える。
 そして散歩中に、《私》は赤茶けたブロンドの少女が自分たちを見ているのに気づく。その少女は男連れの夫人から「ジルベルト早くいらっしゃい」と呼ばれる。
 彼らはジルベルトとオデット、そしてスワンの友人のシャルリュス男爵(『失われた時を求めて』後半の重要登場人物の一人)だった。
 祖父達はシャルリュス男爵がオデットの情人だと思っているのでスワンを気の毒がるが、実はそうではない。シャルリュス男爵の正体は第四篇「ソドムとゴモラ」で明らかにされる。

 また、「スワン家の方」にはヴァントゥイユという音楽家の家があり、彼はさえない老いぼれの音楽家としてコンブレーの人々から哀れまれている。後年、ヴァントゥイユが死んでから、《私》はヴァントゥイユの家の開け放たれた窓の中で、ヴァントゥイユの娘とその女友達が亡き父の写真にむかって口汚い言葉を浴びせながら交情している場面を目撃する。(これを最初に、《私》は以後さまざまな同性愛の現場を目撃することになる。なおヴァントゥイユはこの小説でもっとも重要な役割をする芸術家の一人である)

 一方、「ゲルマントの方」に関して、《私》は教会や伝説の印象から「崇高なもの」「神秘的なもの」といったイメージを膨らませるが、ゲルマント公爵夫人を教会で見かけた《私》は、彼女が単なる生身の人間に過ぎないことに幻滅してしまう。

「認識される存在それ自体」と「認識主体がそれに対してもつイメージ」の間のずれ――そういった要素に最も注意を払って、プルーストは恋愛小説を描く。
 以後展開される《私》のジルベルトへの恋、アルベルチーヌへの恋。
 そして、「スワンの恋」でも。

 

 

 

第二部 スワンの恋

 

 


『失われた時を求めて』は全編にわたり一人称によって語られる小説であるが、この「スワンの恋」だけは三人称で語られる。《私》が生まれる以前の社交界でのスワンの恋が伝聞形式のような形で描かれるのである。(この挿話は恋愛小説としての『失われた時を求めて』のミニチュアとして有名で、解り易い部分である)

 ヴェルデュラン夫妻はサロンを主催する成り金のブルジョワジーである。彼女は貴族には相手にされないので、貴族達を「やりきれない連中」と呼んで軽蔑したふりをしている。
彼女のサロンの党員には「みんなをどっと吹き出させるような下世話な駄洒落」を「ぶっぱなす」コタール医師とその夫人や、大学教授のブリショ、ムッシュー・ピッシュというあだ名の画家や若いピアニスト、そして、「裏社交界」の女性(高級娼婦)オデット・ド・クレシーらがいる。
 当時社交会でもてはやされていたスワンは、ある日、劇場で友人にオデットを紹介されるが、彼女はまったくスワンの好みの女性ではなかった。だが、オデットはスワンの美術コレクションを見せてもらうという名目で、スワンのパリの家に通い始める。
 女好きで、階層の違う女に興味を持つという性癖のあるスワンは、少しづつオデットと交際を深め、しまいには自分が出入りしている上流社交界より数段格の落ちるヴェルデュラン夫人のサロンに通いだす始末である。

 オデットに紹介されて初めてヴェルデュラン夫人のサロンに足を運んだスワンは、そこで、あるピアノ・ソナタを耳にする。
 そのソナタはコンブレーのさえない作曲家ヴァントゥイユの作品であり、後に《私》もヴェルデュラン夫人のサロンで耳にすることになる、『失われた時を求めて』において極めて重要な役割をもつ音楽である。(ヴァントゥイユの音楽の役割とプルーストの芸術観は、第五篇「囚われの女」で描かれる)

 スワンがヴェルデュラン夫人のサロンでオデットと会うたびにヴァントゥイユのソナタが演奏され、その曲は二人にとっての「恋の国歌」となる。しかし、まだ二人の恋愛が本格的に始まったわけではなかった。
 ある日、スワンがオデットの家にお茶を飲みに訪れた時、彼はオデットがボッティチェッリ作のシスティナ礼拝堂の壁画「エテロの娘チッポラ」に似ている事に気付く。
 美術に造詣の深いスワンはその事に深い感興を覚え、チッポラのイメージをオデットに重ね合わせ始めるのである。そこからスワンの狂おしい恋が始まる。


 オデットのそばにいる時でも、一人で彼女の事を思っている時でも、彼はつねに彼女の顔やからだにその壁画の断片を探し求めた。なるほど、彼がフィレンツェ派の傑作にとらわれたのは、彼女のなかにそれを見出したからにすぎなかったが、それにしても、この類似によって彼は彼女にもまた美しさを認め、彼女をいっそう貴重なものに思ったのだ。


 この一文は、スワンのオデットに対する第一印象である「横顔がとがりすぎ、肌は弱々しすぎ、…」という一文とまったく対蹠的である。いわば、その一文がオデットそれ自体についての客観的描写であり、この「フィレンツェ派云々……」の一文は主観者としてのスワンがオデットに投影する「イメージ」の描写であると考えられよう。(スワンはこの挿話の最後にそのズレに気付き、大きく失望するのである)
 スワンはこのようにしてオデットに恋をしてゆくのであるが、本来の自分の好みではない女に「イメージ」を投影して愛するというのは『失われた時を求めて』の《私》の恋愛のあり方にも共通しており、この小説の一つのテーマである。

 

 

 スワンの心は完全にオデットに占められるようになり、ヴェルデュラン夫人のサロンでオデットと行き違いになった時など、スワンは「まるで黄泉の国の死者の亡霊をかきわけてエウリディケを探しまわる」様にオデットの居そうな場所をしらみつぶしに探しまわるのだった。
 しかし、オデットの紹介でフォルシュヴィル伯爵がヴェルデュラン家にあらわれるようになって、状況に変化が生じる。フォルシュヴィル伯爵は貴族でありながらも俗悪な冗談が好きな軽薄な人物で、たちまちヴェルデュラン夫妻の気に入るところとなり、シックなスワンは逆に疎まれ始める。
 ヴェルデュラン夫妻はスワンを除け者にしてオデットを晩餐や旅行に招待するようになり、オデットはオデットで、浮気の疑惑を詰問するスワンを鬱陶しく思いはじめる。スワンは恋の苦しみにさいなまれる。

 オデットとスワンの心はどんどんずれてゆき、スワンの苦悩はますます深まってゆく。
そんなある日、スワンは久々に足を運んだサン=トゥーヴェルト侯爵夫人のサロン(ヴェルデュラン家の様なブルジョワではく本物の貴族のサロン)でオデットとの思い出が深いヴァントゥイユの音楽を耳にする。それを聞いたとたんに彼はオデットとの日々を思い出し胸をしめつけられるが、彼の精神は徐々に音楽に結びついたオデットの記憶から離れ、音楽それ自体の素晴らしさに向かい始める。


 音楽家に対して開かれている領域は、あのけちくさい七つの音の鍵盤ではなく、まだほとんど何も知られていない無限の鍵盤であることもわかっていた。その鍵盤はわずかにあちこち、鍵盤を構成する愛情、情熱、勇気、平静といった幾百万のキーのうちのいくつかが、未踏の厚い闇によってたがいに隔てられており、その各々は一つの宇宙が他の宇宙と異なるように他のキーと異なっているのであって、それらは何人かの偉大な作曲家に見出され、彼らは自分たちの見出したテーマに対応するものを我々の内に目ざめさせながら、こちらの知らぬうちに、我々が空虚であり虚無であると看做している自分たちの魂の、侵入する事のできない絶望的な大いなる夜が、どんな富、どんな変化を隠しているかを示してくれるのである。


 このように彼は天才とその芸術に関して一つの直感をするのである。
 後に《私》もまた、ヴァントゥイユの音楽によって芸術の本質についての直感をする事になる。ここはその先駆である。

 

 

 スワンの心も少しづつオデットから離れだした頃、スワンのもとに一通の匿名の手紙が届く。そこにはオデットがフォルシュヴィル伯爵やその他大勢の男達(のみならず女達)の愛人であったこと、また彼女が足しげく売春宿に出入りしていたという事が書かれており、それをオデットに問いただすと、彼女の答えからは色々なぼろが出てくるのだった。
 スワンは恋人の本性を知り衝撃を受けるが、その衝撃とともに彼の恋は急速にさめてゆく。
 そして、軽薄なオデットはそんなスワンをパリに残してヴェルデュラン夫妻達とともに一年がかりのヨットの旅に出てしまう。
しばらくして、スワンはフォルシュヴィル伯爵がオデットのパトロンだった事の確証をえるが、もはや彼には何の感情も湧いてこないのだった。

 

 生涯の何年かを無駄にしてしまった。死にたいなんて思ったのはバカだった、人生最大の恋だと思った事も……。僕を楽しませもしなければ、僕の趣味でもなかった女のために!


 そんな幻滅の独白とともに『スワンの恋』は終わる。

 

 

 

第三部 土地の名―名前

 

 

 この「土地の名前―名前」は、第二篇『花咲く乙女たちのかげに』第二部「土地の名前―土地」に対応する部分である。
「土地の名前―土地」が《私》が滞在した実際のバルベック(ノルマンディーの架空の土地 )での出来事について書かれた部分であるのに対し、この「土地の名前―名前」は実際にそこにある土地ではなく、認識者のイメージの中にある土地、つまり認識者が意味を見出すものとしての「土地の名前」について書かれた部分である。
 たとえば「パリ」という実在の土地の名が喚起させる「花の都」「芸術の香り高い都」といったイメージが、人々の心の中に再構築する「心のなかの都市」は、その名の通り想像の産物であって実際には存在せぬものである。しかし、「実在の土地」と「心の中の土地」のどちらが、はたして我々にとって真実の土地なのだろうか?――ということをプルーストは考えるのである。
 もちろん、われわれの外部に実在の土地はある。
それは哲学で一つのコップの存在について考えるとき、たとえ唯識論者であっても自分の感覚器によって知覚しているその存在を「世界は人間の意識によって構築されているものだからこのコップは存在しない」とは言えぬようなかたちで物質的にあるのである。
 しかし、「底のふさがった筒状のガラスでできたモノ」がそこにあるだけでは、われわれは「そこにコップがある」とは言えないのだ。(なぜ言えないのか?――という哲学的テーマはここでは省略する)
 

 「土地の名前―名前」の冒頭部分で《私》が語るのは、幼いころ眠れぬ夜に想像したさまざまな土地についてのイメージである。
 ちなみに、ここでの話法は過去の《私》が想像している土地について語る――という、語っている《今の私》から二段階隔たった距離感の事象が描かれるという面白い構造になっている。(こういった、《私》と「物語=世界」の距離感の演出は「失われた時を求めて」の随所にちりばめられている)

 

 病弱で空想好きの《私》は眠れぬ夜にベットで(恐らくパリの家の)、いまだ訪れたことのない有名な土地について思いを馳せるのであった。
 《私》が思い浮かべる土地のイメージはその土地を舞台にした文学や枕詞(花の都~、百合の花の都~)、名前の音の響き……といった象徴的なイメージである。この頃の《私》にとって、欲望は土地そのものよりも「土地の名」に深く結びついている――欲望は《私》の内側にあるのである。土地の名と結びついた欲望を「土地そのもの」に投げかけることによって、《私》にとってそれらの土地は非常に価値あるものとして現れる。(しかし、それは想像上で肥大したイメージとしてだけの価値なので、後に《私》が実際にその地に訪れた時、他のイタリア、フランスの町となんら変わらぬ それらの土地に大きく失望する原因となる)
 《私》の土地への欲望は、父が立てたイタリア旅行の計画によってより距離が縮まったかの様に思えた。しかし、あまりの興奮に高熱を出した《私》は医師に一年の間旅行を禁じられ、土地は再び「遠い」ものになってしまう。

 

 それから《私》は健康のため、毎日フランソワーズ(コンブレーのレオニ叔母が死んでから《私》の家の召使になった)に連れられてシャンゼリゼに散歩に出掛けるに様になる。シャンゼリゼの名前は《私》の欲望に何ら結びついておらず、彼にとって実にくだらない場所であった。
 そんなある日、《私》は一人の少女が「ジルベルト」と呼ばれるのを耳にする。
 それの少女はまさしくスワンの娘のジルベルトであった。その時からシャンゼリゼは《私》にとって非常に価値ある土地になり、ジルベルトと遊ぶ時間が彼には何より幸福な時間になる。
 しかし、気まぐれなジルベルトは《私》に優しい態度をとったかと思うと突然冷たくなったりして、《私》の心を苦しめるのだった。

 

 

<第二篇につづく>

 

 

長らく、私は宵から床に就いていた。
時には、蝋燭を消すや途端にまぶたがふさがり、「僕は眠るのだな」と思う間すらないこともあった。

 

 

第一篇「スワン家の方へ」

 


 この小説は「スワンの恋」を除く全編にわたり〈Je〉という一人称で語られる。
 しかし、全七篇の大長編の私小説もかかわらず、この〈Je〉=《私》の名前や、その時々の年齢などに関しては限定する描写はほとんど為されない。
 明らかにされるのは《私》が文学を目指していること。コンブレーに親戚が多いこと。パリに家があること――ぐらいである。

 第七篇「見出された時」で第一次世界大戦が起こり、全編を通してドレフュス事件(※1894年に起きたユダヤ人大尉ドレフュスへのスパイ容疑の冤罪事件)が描かれるので、物語の時代背景は十九世紀後半から二十世紀初頭だと考えてよいだろう。

 

 

 

第一部 コンブレー

 

 


長らく、私は宵から床に就いていた。 
時には、蝋燭を消すや途端にまぶたがふさがり、「僕は眠るのだな」と思う間すらないこともあった。

 

 《私》の「私小説」の態で、この小説は幕を開ける。
 眠りと目覚め、現在いる場所と過去にいた場所(の記憶)を、行きつ戻りつ描き始めた《私》は、幼少期を過ごした土地であり、彼の親戚達(祖父母、祖母の従姉である大叔母、その娘のレオニ叔母、アドルフ大叔父……など)が住んでいたコンブレーについての記憶を喚起し、その幼年期の記憶からこの物語は始まる。

 幼年期の《私》は繊細で依存症的であった。
 彼が寝付かれぬ夜、彼の気が紛れる様にと家人は彼の寝室で幻灯を行ってくれた。
「ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン」という女主人公が登場する中世の『黄金伝説』の幻灯は美しくはあったけれど、《私》の暮らし慣れた寝室のイメージ(そこが自分の存在する場所であるという確信)を揺るがすだけで、よりいっそう彼を悲しませるのだった。
 また、彼はママの「おやすみのキス」なしでは安心して眠ることができなかった。
一人で二階に寝に上がる彼の唯一の慰めが母のキスだった。キスをしてくれた母が寝室を去ろうとするとき、彼はいつも「もう一度キスして」と頼みたかったのだが、厳格な父母がそのような甘えすぎた要求を許しはしないだろうと《私》はいつもその望みを断念するのであった。(母のキスのもつ快楽と禁忌のイメージは、物語を通じて何度も想起されることになる)

 しかし「お休みのキス」はしばしば来客によって中止されることがあった。
コンブレーでの来客といえば大抵それは近所のスワン氏である。スワン氏はユダヤ人の株式仲介人の息子で、伊達な美術愛好家として上流社交界でもてはやされている人物である。
(スワンは時の寵児として一流人に登りつめ、そして凋落してゆく人物であるが、軽薄な人物としてではなく芸術を真に理解する可能性のあるシックな人物として描かれる。彼が凋落するのは、移ろいやすい社交界の価値基準のせいであり、後に見るオデットとの恋と不幸な結婚のせいである)

 ある夜、スワン氏の訪問のために「お休みのキス」なしに寝に上がらねばならなくなった《私》は召使のフランソワーズに母への伝言を頼むが却って母の不興を買う事になり、母はやって来てくれない。
あまりの悲しみに階下に降りようとした《私》は両親に見咎められるが、気まぐれな父の寛大な処置によって、思いがけず母に添い寝をしてもらえることになる。
 その夜、ベッドでジョルジュ・サンドの小説『フランソワ・ル・シャンピ』を読み聞かせてくれる母は、その小説の主題である捨て子フランソワと継母マドレーヌとの恋愛描写を読み飛ばしてしまうので《私》にはその物語がなんの話だかさっぱりわからないのだった。
「お休みのキス」と同じく、この一夜の安らぎは《私》の幸福の原風景となる。しかし注目すべきは、それが単に親子団欒の幸福としてではなく、恋愛の幸福の原風景として後に《私》に想起されることにある。この『フランソワ・ル・シャンピ』、後に大女優ラ・ベルマ(サラ・ベルナールがモデル)が登場する度に演じられるラシーヌの芝居『フェードル』など、母子の許されぬ愛の物語が『失われた時を求めて』の随所に挿入されている。 (「冒涜と快楽」「嫉妬と愛情」「失望と欲望」の相関関係はこの小説の大きなテーマであり、「聖なるものの冒涜」の原初的象徴として「母子の性愛」が用いられるのである)

 

 

 コンブレーでの記憶がしばらく語られた後、《私》の位置は再び冒頭に戻り「記憶」についての考察が再開される。以下は有名な「プチット・マドレーヌ」の挿話である。
《私》は成長しパリで生活している。コンブレーについての記憶は母との就寝劇以外もはや失われてしまった。そんなある日、出先から帰宅した《私》に母が紅茶とマドレーヌ菓子を出してくれる。
 マドレーヌを浸した紅茶を一口飲んだ《私》はえもいわれぬ不思議な感覚に襲われる。
 それは原因のわからない素晴らしい快楽である。
 その原因を探ろうと、《私》は二口目を飲む。
 しかし、そこには一口目以上のものは見出されない。
 三口目は二口目よりも少し劣ったものしか彼にもたらさない。
《私》は紅茶に頼るのをやめ、最初の一口を飲んだ瞬間に思考をさかのぼらせて内省する。……その努力を十回 ほど繰り返すがどうもうまくいかない。しかし、突如として《私》の心に、ある味覚の記憶がよみがえる。それはコンブレーで日曜日の朝、レオニ叔母に「おはよう」を言いに行くと出してくれる菩提樹のお茶に浸したマドレーヌの味だったのである。 その味覚を思い出した途端、《私》は次の様にレオニ叔母の部屋を鮮やかに思いだすのだった。

 

 

 水を満たした陶器の鉢に小さな紙切れを浸して日本人が楽しむ遊びで、それまで何かはっきりしなかったその紙切れが、水に浸けられた途端に、のび、まるくなり、いろづき、わかれ、しっかりした、まぎれもない、花となり、家となり、人となるように、スワン氏の庭園のすべての花、そしてヴィヴォーヌ川の妖精、そして村の善良な人たちと彼らのささやかな住い、そして教会、そして全コンブレーとその近郷、形態をそなえ堅牢性をもつそうしたすべてが、町も庭もともに、私の一杯の紅茶から出てきたのである。

 

 

《私》は時空を超え、物語は再びコンブレーへと戻る。

 

 コンブレーはその中心に教会がある宗教的、神秘的な町である。
その教会にあるタピスリーには、エステル(ペルシア王アハシュロスの妃となったユダヤの婦人)が王妃の冠をいただく絵柄が描かれている。古い言い伝えによると、アハシュロス王にはあるフランス王の顔立ちが与えられ、エステルにはそのフランス王が恋をした「ゲルマント家」の一婦人の顔立ちが与えられているという。そして教会のステンドグラスの隅には昔のゲルマント領主悪公ジルベールをあらわしているものがあり、その祖先は《私》が昔幻灯で見た『黄金伝説』の「ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン」だというのだ。
 それらの伝説が《私》の心に「ゲルマント家」という大貴族の一族の神秘的なイメージを植えつける。

 また、コンブレーの《私》の家からは二本の散歩道がのびており、一方はスワン家の所有地を通るメゼグリーズ=ラ=ヴィーヌズの方、いわゆる「スワン家の方」で、もう一方が大貴族ゲルマント家の館につづく「ゲルマントの方」である。
この二つの「方」は極めて対蹠的であり、象徴的である。
「ゲルマントの方」は中世の伝説から時をたどり続けてきた貴族の「歴史的時間」の方向で、「スワン家の方」は根無草的な在り方を余儀なくされてきたユダヤ人の、歴史にとどまることのできない「個人的生命の時間」の方向である。この二つの方向の空間的・概念的断絶は以下に引く一文にうまく表現されている。

 私は、その二つを隔てている間隔に、キロメートルで測られる距離以上のもの、その二つを考える私の頭脳の二つの部分の間にある距離――二つを単に隔てるだけでなく、引き離して別の面に置くあの精神の内部の距離の一つを設けるのであった。
 そしてその境界はいっそう絶対的なものになった。……というのは、同じ日の、同じ散歩に、二つの方どちらにも出かけたことは決してなく、あるときはメゼグリーズの方へ、またあるときはゲルマントの方へ行った、そんな私たちの習慣が、その二つを互いに遠くへ引き離し、互いに不可知の状態に置き、別 々の午後という、双方の間に流通のない、封じられた壷と壷との中に、その二つをいわば閉じ込めていたからであった。

 
――しかし、プルーストは『失われた時を求めて』の最終章で、全く断絶されたこの二つの「方」をある方法で統一させてしまう。

 

 

 スワンが結婚して以来、《私》の家人はスワン家の方には散歩に出掛けなかった。
なぜなら彼の妻オデットは以前高級娼婦であったといういかがわしい経歴を持つ女性だったからだ。スワン夫人とその娘ジルベルトはコンブレーではスキャンダラスな目で見られていた。
 ある日、スワン夫人と娘がランスに発つというので、《私》の祖父と父は《私》を連れてスワン家の方へ散歩に出かける。サンザシの花の香りに恍惚としながらも、《私》は祖父と父の見当が外れてスワン夫人とその娘に出くわしたりしないかと密かに考える。
 そして散歩中に、《私》は赤茶けたブロンドの少女が自分たちを見ているのに気づく。その少女は男連れの夫人から「ジルベルト早くいらっしゃい」と呼ばれる。
 彼らはジルベルトとオデット、そしてスワンの友人のシャルリュス男爵(『失われた時を求めて』後半の重要登場人物の一人)だった。
 祖父達はシャルリュス男爵がオデットの情人だと思っているのでスワンを気の毒がるが、実はそうではない。シャルリュス男爵の正体は第四篇「ソドムとゴモラ」で明らかにされる。

 また、「スワン家の方」にはヴァントゥイユという音楽家の家があり、彼はさえない老いぼれの音楽家としてコンブレーの人々から哀れまれている。後年、ヴァントゥイユが死んでから、《私》はヴァントゥイユの家の開け放たれた窓の中で、ヴァントゥイユの娘とその女友達が亡き父の写真にむかって口汚い言葉を浴びせながら交情している場面を目撃する。(これを最初に、《私》は以後さまざまな同性愛の現場を目撃することになる。なおヴァントゥイユはこの小説でもっとも重要な役割をする芸術家の一人である)

 一方、「ゲルマントの方」に関して、《私》は教会や伝説の印象から「崇高なもの」「神秘的なもの」といったイメージを膨らませるが、ゲルマント公爵夫人を教会で見かけた《私》は、彼女が単なる生身の人間に過ぎないことに幻滅してしまう。

「認識される存在それ自体」と「認識主体がそれに対してもつイメージ」の間のずれ――そういった要素に最も注意を払って、プルーストは恋愛小説を描く。
 以後展開される《私》のジルベルトへの恋、アルベルチーヌへの恋。
 そして、「スワンの恋」でも。

 

 

 

第二部 スワンの恋

 

 


『失われた時を求めて』は全編にわたり一人称によって語られる小説であるが、この「スワンの恋」だけは三人称で語られる。《私》が生まれる以前の社交界でのスワンの恋が伝聞形式のような形で描かれるのである。(この挿話は恋愛小説としての『失われた時を求めて』のミニチュアとして有名で、解り易い部分である)

 ヴェルデュラン夫妻はサロンを主催する成り金のブルジョワジーである。彼女は貴族には相手にされないので、貴族達を「やりきれない連中」と呼んで軽蔑したふりをしている。
彼女のサロンの党員には「みんなをどっと吹き出させるような下世話な駄洒落」を「ぶっぱなす」コタール医師とその夫人や、大学教授のブリショ、ムッシュー・ピッシュというあだ名の画家や若いピアニスト、そして、「裏社交界」の女性(高級娼婦)オデット・ド・クレシーらがいる。
 当時社交会でもてはやされていたスワンは、ある日、劇場で友人にオデットを紹介されるが、彼女はまったくスワンの好みの女性ではなかった。だが、オデットはスワンの美術コレクションを見せてもらうという名目で、スワンのパリの家に通い始める。
 女好きで、階層の違う女に興味を持つという性癖のあるスワンは、少しづつオデットと交際を深め、しまいには自分が出入りしている上流社交界より数段格の落ちるヴェルデュラン夫人のサロンに通いだす始末である。

 オデットに紹介されて初めてヴェルデュラン夫人のサロンに足を運んだスワンは、そこで、あるピアノ・ソナタを耳にする。
 そのソナタはコンブレーのさえない作曲家ヴァントゥイユの作品であり、後に《私》もヴェルデュラン夫人のサロンで耳にすることになる、『失われた時を求めて』において極めて重要な役割をもつ音楽である。(ヴァントゥイユの音楽の役割とプルーストの芸術観は、第五篇「囚われの女」で描かれる)

 スワンがヴェルデュラン夫人のサロンでオデットと会うたびにヴァントゥイユのソナタが演奏され、その曲は二人にとっての「恋の国歌」となる。しかし、まだ二人の恋愛が本格的に始まったわけではなかった。
 ある日、スワンがオデットの家にお茶を飲みに訪れた時、彼はオデットがボッティチェッリ作のシスティナ礼拝堂の壁画「エテロの娘チッポラ」に似ている事に気付く。
 美術に造詣の深いスワンはその事に深い感興を覚え、チッポラのイメージをオデットに重ね合わせ始めるのである。そこからスワンの狂おしい恋が始まる。


 オデットのそばにいる時でも、一人で彼女の事を思っている時でも、彼はつねに彼女の顔やからだにその壁画の断片を探し求めた。なるほど、彼がフィレンツェ派の傑作にとらわれたのは、彼女のなかにそれを見出したからにすぎなかったが、それにしても、この類似によって彼は彼女にもまた美しさを認め、彼女をいっそう貴重なものに思ったのだ。


 この一文は、スワンのオデットに対する第一印象である「横顔がとがりすぎ、肌は弱々しすぎ、…」という一文とまったく対蹠的である。いわば、その一文がオデットそれ自体についての客観的描写であり、この「フィレンツェ派云々……」の一文は主観者としてのスワンがオデットに投影する「イメージ」の描写であると考えられよう。(スワンはこの挿話の最後にそのズレに気付き、大きく失望するのである)
 スワンはこのようにしてオデットに恋をしてゆくのであるが、本来の自分の好みではない女に「イメージ」を投影して愛するというのは『失われた時を求めて』の《私》の恋愛のあり方にも共通しており、この小説の一つのテーマである。

 

 

 スワンの心は完全にオデットに占められるようになり、ヴェルデュラン夫人のサロンでオデットと行き違いになった時など、スワンは「まるで黄泉の国の死者の亡霊をかきわけてエウリディケを探しまわる」様にオデットの居そうな場所をしらみつぶしに探しまわるのだった。
 しかし、オデットの紹介でフォルシュヴィル伯爵がヴェルデュラン家にあらわれるようになって、状況に変化が生じる。フォルシュヴィル伯爵は貴族でありながらも俗悪な冗談が好きな軽薄な人物で、たちまちヴェルデュラン夫妻の気に入るところとなり、シックなスワンは逆に疎まれ始める。
 ヴェルデュラン夫妻はスワンを除け者にしてオデットを晩餐や旅行に招待するようになり、オデットはオデットで、浮気の疑惑を詰問するスワンを鬱陶しく思いはじめる。スワンは恋の苦しみにさいなまれる。

 オデットとスワンの心はどんどんずれてゆき、スワンの苦悩はますます深まってゆく。
そんなある日、スワンは久々に足を運んだサン=トゥーヴェルト侯爵夫人のサロン(ヴェルデュラン家の様なブルジョワではく本物の貴族のサロン)でオデットとの思い出が深いヴァントゥイユの音楽を耳にする。それを聞いたとたんに彼はオデットとの日々を思い出し胸をしめつけられるが、彼の精神は徐々に音楽に結びついたオデットの記憶から離れ、音楽それ自体の素晴らしさに向かい始める。


 音楽家に対して開かれている領域は、あのけちくさい七つの音の鍵盤ではなく、まだほとんど何も知られていない無限の鍵盤であることもわかっていた。その鍵盤はわずかにあちこち、鍵盤を構成する愛情、情熱、勇気、平静といった幾百万のキーのうちのいくつかが、未踏の厚い闇によってたがいに隔てられており、その各々は一つの宇宙が他の宇宙と異なるように他のキーと異なっているのであって、それらは何人かの偉大な作曲家に見出され、彼らは自分たちの見出したテーマに対応するものを我々の内に目ざめさせながら、こちらの知らぬうちに、我々が空虚であり虚無であると看做している自分たちの魂の、侵入する事のできない絶望的な大いなる夜が、どんな富、どんな変化を隠しているかを示してくれるのである。


 このように彼は天才とその芸術に関して一つの直感をするのである。
 後に《私》もまた、ヴァントゥイユの音楽によって芸術の本質についての直感をする事になる。ここはその先駆である。

 

 

 スワンの心も少しづつオデットから離れだした頃、スワンのもとに一通の匿名の手紙が届く。そこにはオデットがフォルシュヴィル伯爵やその他大勢の男達(のみならず女達)の愛人であったこと、また彼女が足しげく売春宿に出入りしていたという事が書かれており、それをオデットに問いただすと、彼女の答えからは色々なぼろが出てくるのだった。
 スワンは恋人の本性を知り衝撃を受けるが、その衝撃とともに彼の恋は急速にさめてゆく。
 そして、軽薄なオデットはそんなスワンをパリに残してヴェルデュラン夫妻達とともに一年がかりのヨットの旅に出てしまう。
しばらくして、スワンはフォルシュヴィル伯爵がオデットのパトロンだった事の確証をえるが、もはや彼には何の感情も湧いてこないのだった。

 

 生涯の何年かを無駄にしてしまった。死にたいなんて思ったのはバカだった、人生最大の恋だと思った事も……。僕を楽しませもしなければ、僕の趣味でもなかった女のために!


 そんな幻滅の独白とともに『スワンの恋』は終わる。

 

 

 

第三部 土地の名―名前

 

 

 この「土地の名前―名前」は、第二篇『花咲く乙女たちのかげに』第二部「土地の名前―土地」に対応する部分である。
「土地の名前―土地」が《私》が滞在した実際のバルベック(ノルマンディーの架空の土地 )での出来事について書かれた部分であるのに対し、この「土地の名前―名前」は実際にそこにある土地ではなく、認識者のイメージの中にある土地、つまり認識者が意味を見出すものとしての「土地の名前」について書かれた部分である。
 たとえば「パリ」という実在の土地の名が喚起させる「花の都」「芸術の香り高い都」といったイメージが、人々の心の中に再構築する「心のなかの都市」は、その名の通り想像の産物であって実際には存在せぬものである。しかし、「実在の土地」と「心の中の土地」のどちらが、はたして我々にとって真実の土地なのだろうか?――ということをプルーストは考えるのである。
 もちろん、われわれの外部に実在の土地はある。
それは哲学で一つのコップの存在について考えるとき、たとえ唯識論者であっても自分の感覚器によって知覚しているその存在を「世界は人間の意識によって構築されているものだからこのコップは存在しない」とは言えぬようなかたちで物質的にあるのである。
 しかし、「底のふさがった筒状のガラスでできたモノ」がそこにあるだけでは、われわれは「そこにコップがある」とは言えないのだ。(なぜ言えないのか?――という哲学的テーマはここでは省略する)
 

 「土地の名前―名前」の冒頭部分で《私》が語るのは、幼いころ眠れぬ夜に想像したさまざまな土地についてのイメージである。
 ちなみに、ここでの話法は過去の《私》が想像している土地について語る――という、語っている《今の私》から二段階隔たった距離感の事象が描かれるという面白い構造になっている。(こういった、《私》と「物語=世界」の距離感の演出は「失われた時を求めて」の随所にちりばめられている)

 

 病弱で空想好きの《私》は眠れぬ夜にベットで(恐らくパリの家の)、いまだ訪れたことのない有名な土地について思いを馳せるのであった。
 《私》が思い浮かべる土地のイメージはその土地を舞台にした文学や枕詞(花の都~、百合の花の都~)、名前の音の響き……といった象徴的なイメージである。この頃の《私》にとって、欲望は土地そのものよりも「土地の名」に深く結びついている――欲望は《私》の内側にあるのである。土地の名と結びついた欲望を「土地そのもの」に投げかけることによって、《私》にとってそれらの土地は非常に価値あるものとして現れる。(しかし、それは想像上で肥大したイメージとしてだけの価値なので、後に《私》が実際にその地に訪れた時、他のイタリア、フランスの町となんら変わらぬ それらの土地に大きく失望する原因となる)
 《私》の土地への欲望は、父が立てたイタリア旅行の計画によってより距離が縮まったかの様に思えた。しかし、あまりの興奮に高熱を出した《私》は医師に一年の間旅行を禁じられ、土地は再び「遠い」ものになってしまう。

 

 それから《私》は健康のため、毎日フランソワーズ(コンブレーのレオニ叔母が死んでから《私》の家の召使になった)に連れられてシャンゼリゼに散歩に出掛けるに様になる。シャンゼリゼの名前は《私》の欲望に何ら結びついておらず、彼にとって実にくだらない場所であった。
 そんなある日、《私》は一人の少女が「ジルベルト」と呼ばれるのを耳にする。
 それの少女はまさしくスワンの娘のジルベルトであった。その時からシャンゼリゼは《私》にとって非常に価値ある土地になり、ジルベルトと遊ぶ時間が彼には何より幸福な時間になる。
 しかし、気まぐれなジルベルトは《私》に優しい態度をとったかと思うと突然冷たくなったりして、《私》の心を苦しめるのだった。

 

 

<第二篇につづく>

 

 

長らく、私は宵から床に就いていた。
時には、蝋燭を消すや途端にまぶたがふさがり、「僕は眠るのだな」と思う間すらないこともあった。

 

 

第一篇「スワン家の方へ」

 


 この小説は「スワンの恋」を除く全編にわたり〈Je〉という一人称で語られる。
 しかし、全七篇の大長編の私小説もかかわらず、この〈Je〉=《私》の名前や、その時々の年齢などに関しては限定する描写はほとんど為されない。
 明らかにされるのは《私》が文学を目指していること。コンブレーに親戚が多いこと。パリに家があること――ぐらいである。

 第七篇「見出された時」で第一次世界大戦が起こり、全編を通してドレフュス事件(※1894年に起きたユダヤ人大尉ドレフュスへのスパイ容疑の冤罪事件)が描かれるので、物語の時代背景は十九世紀後半から二十世紀初頭だと考えてよいだろう。

 

 

 

第一部 コンブレー

 

 


長らく、私は宵から床に就いていた。 
時には、蝋燭を消すや途端にまぶたがふさがり、「僕は眠るのだな」と思う間すらないこともあった。

 

 《私》の「私小説」の態で、この小説は幕を開ける。
 眠りと目覚め、現在いる場所と過去にいた場所(の記憶)を、行きつ戻りつ描き始めた《私》は、幼少期を過ごした土地であり、彼の親戚達(祖父母、祖母の従姉である大叔母、その娘のレオニ叔母、アドルフ大叔父……など)が住んでいたコンブレーについての記憶を喚起し、その幼年期の記憶からこの物語は始まる。

 幼年期の《私》は繊細で依存症的であった。
 彼が寝付かれぬ夜、彼の気が紛れる様にと家人は彼の寝室で幻灯を行ってくれた。
「ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン」という女主人公が登場する中世の『黄金伝説』の幻灯は美しくはあったけれど、《私》の暮らし慣れた寝室のイメージ(そこが自分の存在する場所であるという確信)を揺るがすだけで、よりいっそう彼を悲しませるのだった。
 また、彼はママの「おやすみのキス」なしでは安心して眠ることができなかった。
一人で二階に寝に上がる彼の唯一の慰めが母のキスだった。キスをしてくれた母が寝室を去ろうとするとき、彼はいつも「もう一度キスして」と頼みたかったのだが、厳格な父母がそのような甘えすぎた要求を許しはしないだろうと《私》はいつもその望みを断念するのであった。(母のキスのもつ快楽と禁忌のイメージは、物語を通じて何度も想起されることになる)

 しかし「お休みのキス」はしばしば来客によって中止されることがあった。
コンブレーでの来客といえば大抵それは近所のスワン氏である。スワン氏はユダヤ人の株式仲介人の息子で、伊達な美術愛好家として上流社交界でもてはやされている人物である。
(スワンは時の寵児として一流人に登りつめ、そして凋落してゆく人物であるが、軽薄な人物としてではなく芸術を真に理解する可能性のあるシックな人物として描かれる。彼が凋落するのは、移ろいやすい社交界の価値基準のせいであり、後に見るオデットとの恋と不幸な結婚のせいである)

 ある夜、スワン氏の訪問のために「お休みのキス」なしに寝に上がらねばならなくなった《私》は召使のフランソワーズに母への伝言を頼むが却って母の不興を買う事になり、母はやって来てくれない。
あまりの悲しみに階下に降りようとした《私》は両親に見咎められるが、気まぐれな父の寛大な処置によって、思いがけず母に添い寝をしてもらえることになる。
 その夜、ベッドでジョルジュ・サンドの小説『フランソワ・ル・シャンピ』を読み聞かせてくれる母は、その小説の主題である捨て子フランソワと継母マドレーヌとの恋愛描写を読み飛ばしてしまうので《私》にはその物語がなんの話だかさっぱりわからないのだった。
「お休みのキス」と同じく、この一夜の安らぎは《私》の幸福の原風景となる。しかし注目すべきは、それが単に親子団欒の幸福としてではなく、恋愛の幸福の原風景として後に《私》に想起されることにある。この『フランソワ・ル・シャンピ』、後に大女優ラ・ベルマ(サラ・ベルナールがモデル)が登場する度に演じられるラシーヌの芝居『フェードル』など、母子の許されぬ愛の物語が『失われた時を求めて』の随所に挿入されている。 (「冒涜と快楽」「嫉妬と愛情」「失望と欲望」の相関関係はこの小説の大きなテーマであり、「聖なるものの冒涜」の原初的象徴として「母子の性愛」が用いられるのである)

 

 

 コンブレーでの記憶がしばらく語られた後、《私》の位置は再び冒頭に戻り「記憶」についての考察が再開される。以下は有名な「プチット・マドレーヌ」の挿話である。
《私》は成長しパリで生活している。コンブレーについての記憶は母との就寝劇以外もはや失われてしまった。そんなある日、出先から帰宅した《私》に母が紅茶とマドレーヌ菓子を出してくれる。
 マドレーヌを浸した紅茶を一口飲んだ《私》はえもいわれぬ不思議な感覚に襲われる。
 それは原因のわからない素晴らしい快楽である。
 その原因を探ろうと、《私》は二口目を飲む。
 しかし、そこには一口目以上のものは見出されない。
 三口目は二口目よりも少し劣ったものしか彼にもたらさない。
《私》は紅茶に頼るのをやめ、最初の一口を飲んだ瞬間に思考をさかのぼらせて内省する。……その努力を十回 ほど繰り返すがどうもうまくいかない。しかし、突如として《私》の心に、ある味覚の記憶がよみがえる。それはコンブレーで日曜日の朝、レオニ叔母に「おはよう」を言いに行くと出してくれる菩提樹のお茶に浸したマドレーヌの味だったのである。 その味覚を思い出した途端、《私》は次の様にレオニ叔母の部屋を鮮やかに思いだすのだった。

 

 

 水を満たした陶器の鉢に小さな紙切れを浸して日本人が楽しむ遊びで、それまで何かはっきりしなかったその紙切れが、水に浸けられた途端に、のび、まるくなり、いろづき、わかれ、しっかりした、まぎれもない、花となり、家となり、人となるように、スワン氏の庭園のすべての花、そしてヴィヴォーヌ川の妖精、そして村の善良な人たちと彼らのささやかな住い、そして教会、そして全コンブレーとその近郷、形態をそなえ堅牢性をもつそうしたすべてが、町も庭もともに、私の一杯の紅茶から出てきたのである。

 

 

《私》は時空を超え、物語は再びコンブレーへと戻る。

 

 コンブレーはその中心に教会がある宗教的、神秘的な町である。
その教会にあるタピスリーには、エステル(ペルシア王アハシュロスの妃となったユダヤの婦人)が王妃の冠をいただく絵柄が描かれている。古い言い伝えによると、アハシュロス王にはあるフランス王の顔立ちが与えられ、エステルにはそのフランス王が恋をした「ゲルマント家」の一婦人の顔立ちが与えられているという。そして教会のステンドグラスの隅には昔のゲルマント領主悪公ジルベールをあらわしているものがあり、その祖先は《私》が昔幻灯で見た『黄金伝説』の「ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン」だというのだ。
 それらの伝説が《私》の心に「ゲルマント家」という大貴族の一族の神秘的なイメージを植えつける。

 また、コンブレーの《私》の家からは二本の散歩道がのびており、一方はスワン家の所有地を通るメゼグリーズ=ラ=ヴィーヌズの方、いわゆる「スワン家の方」で、もう一方が大貴族ゲルマント家の館につづく「ゲルマントの方」である。
この二つの「方」は極めて対蹠的であり、象徴的である。
「ゲルマントの方」は中世の伝説から時をたどり続けてきた貴族の「歴史的時間」の方向で、「スワン家の方」は根無草的な在り方を余儀なくされてきたユダヤ人の、歴史にとどまることのできない「個人的生命の時間」の方向である。この二つの方向の空間的・概念的断絶は以下に引く一文にうまく表現されている。

 私は、その二つを隔てている間隔に、キロメートルで測られる距離以上のもの、その二つを考える私の頭脳の二つの部分の間にある距離――二つを単に隔てるだけでなく、引き離して別の面に置くあの精神の内部の距離の一つを設けるのであった。
 そしてその境界はいっそう絶対的なものになった。……というのは、同じ日の、同じ散歩に、二つの方どちらにも出かけたことは決してなく、あるときはメゼグリーズの方へ、またあるときはゲルマントの方へ行った、そんな私たちの習慣が、その二つを互いに遠くへ引き離し、互いに不可知の状態に置き、別 々の午後という、双方の間に流通のない、封じられた壷と壷との中に、その二つをいわば閉じ込めていたからであった。

 
――しかし、プルーストは『失われた時を求めて』の最終章で、全く断絶されたこの二つの「方」をある方法で統一させてしまう。

 

 

 スワンが結婚して以来、《私》の家人はスワン家の方には散歩に出掛けなかった。
なぜなら彼の妻オデットは以前高級娼婦であったといういかがわしい経歴を持つ女性だったからだ。スワン夫人とその娘ジルベルトはコンブレーではスキャンダラスな目で見られていた。
 ある日、スワン夫人と娘がランスに発つというので、《私》の祖父と父は《私》を連れてスワン家の方へ散歩に出かける。サンザシの花の香りに恍惚としながらも、《私》は祖父と父の見当が外れてスワン夫人とその娘に出くわしたりしないかと密かに考える。
 そして散歩中に、《私》は赤茶けたブロンドの少女が自分たちを見ているのに気づく。その少女は男連れの夫人から「ジルベルト早くいらっしゃい」と呼ばれる。
 彼らはジルベルトとオデット、そしてスワンの友人のシャルリュス男爵(『失われた時を求めて』後半の重要登場人物の一人)だった。
 祖父達はシャルリュス男爵がオデットの情人だと思っているのでスワンを気の毒がるが、実はそうではない。シャルリュス男爵の正体は第四篇「ソドムとゴモラ」で明らかにされる。

 また、「スワン家の方」にはヴァントゥイユという音楽家の家があり、彼はさえない老いぼれの音楽家としてコンブレーの人々から哀れまれている。後年、ヴァントゥイユが死んでから、《私》はヴァントゥイユの家の開け放たれた窓の中で、ヴァントゥイユの娘とその女友達が亡き父の写真にむかって口汚い言葉を浴びせながら交情している場面を目撃する。(これを最初に、《私》は以後さまざまな同性愛の現場を目撃することになる。なおヴァントゥイユはこの小説でもっとも重要な役割をする芸術家の一人である)

 一方、「ゲルマントの方」に関して、《私》は教会や伝説の印象から「崇高なもの」「神秘的なもの」といったイメージを膨らませるが、ゲルマント公爵夫人を教会で見かけた《私》は、彼女が単なる生身の人間に過ぎないことに幻滅してしまう。

「認識される存在それ自体」と「認識主体がそれに対してもつイメージ」の間のずれ――そういった要素に最も注意を払って、プルーストは恋愛小説を描く。
 以後展開される《私》のジルベルトへの恋、アルベルチーヌへの恋。
 そして、「スワンの恋」でも。

 

 

 

第二部 スワンの恋

 

 


『失われた時を求めて』は全編にわたり一人称によって語られる小説であるが、この「スワンの恋」だけは三人称で語られる。《私》が生まれる以前の社交界でのスワンの恋が伝聞形式のような形で描かれるのである。(この挿話は恋愛小説としての『失われた時を求めて』のミニチュアとして有名で、解り易い部分である)

 ヴェルデュラン夫妻はサロンを主催する成り金のブルジョワジーである。彼女は貴族には相手にされないので、貴族達を「やりきれない連中」と呼んで軽蔑したふりをしている。
彼女のサロンの党員には「みんなをどっと吹き出させるような下世話な駄洒落」を「ぶっぱなす」コタール医師とその夫人や、大学教授のブリショ、ムッシュー・ピッシュというあだ名の画家や若いピアニスト、そして、「裏社交界」の女性(高級娼婦)オデット・ド・クレシーらがいる。
 当時社交会でもてはやされていたスワンは、ある日、劇場で友人にオデットを紹介されるが、彼女はまったくスワンの好みの女性ではなかった。だが、オデットはスワンの美術コレクションを見せてもらうという名目で、スワンのパリの家に通い始める。
 女好きで、階層の違う女に興味を持つという性癖のあるスワンは、少しづつオデットと交際を深め、しまいには自分が出入りしている上流社交界より数段格の落ちるヴェルデュラン夫人のサロンに通いだす始末である。

 オデットに紹介されて初めてヴェルデュラン夫人のサロンに足を運んだスワンは、そこで、あるピアノ・ソナタを耳にする。
 そのソナタはコンブレーのさえない作曲家ヴァントゥイユの作品であり、後に《私》もヴェルデュラン夫人のサロンで耳にすることになる、『失われた時を求めて』において極めて重要な役割をもつ音楽である。(ヴァントゥイユの音楽の役割とプルーストの芸術観は、第五篇「囚われの女」で描かれる)

 スワンがヴェルデュラン夫人のサロンでオデットと会うたびにヴァントゥイユのソナタが演奏され、その曲は二人にとっての「恋の国歌」となる。しかし、まだ二人の恋愛が本格的に始まったわけではなかった。
 ある日、スワンがオデットの家にお茶を飲みに訪れた時、彼はオデットがボッティチェッリ作のシスティナ礼拝堂の壁画「エテロの娘チッポラ」に似ている事に気付く。
 美術に造詣の深いスワンはその事に深い感興を覚え、チッポラのイメージをオデットに重ね合わせ始めるのである。そこからスワンの狂おしい恋が始まる。


 オデットのそばにいる時でも、一人で彼女の事を思っている時でも、彼はつねに彼女の顔やからだにその壁画の断片を探し求めた。なるほど、彼がフィレンツェ派の傑作にとらわれたのは、彼女のなかにそれを見出したからにすぎなかったが、それにしても、この類似によって彼は彼女にもまた美しさを認め、彼女をいっそう貴重なものに思ったのだ。


 この一文は、スワンのオデットに対する第一印象である「横顔がとがりすぎ、肌は弱々しすぎ、…」という一文とまったく対蹠的である。いわば、その一文がオデットそれ自体についての客観的描写であり、この「フィレンツェ派云々……」の一文は主観者としてのスワンがオデットに投影する「イメージ」の描写であると考えられよう。(スワンはこの挿話の最後にそのズレに気付き、大きく失望するのである)
 スワンはこのようにしてオデットに恋をしてゆくのであるが、本来の自分の好みではない女に「イメージ」を投影して愛するというのは『失われた時を求めて』の《私》の恋愛のあり方にも共通しており、この小説の一つのテーマである。

 

 

 スワンの心は完全にオデットに占められるようになり、ヴェルデュラン夫人のサロンでオデットと行き違いになった時など、スワンは「まるで黄泉の国の死者の亡霊をかきわけてエウリディケを探しまわる」様にオデットの居そうな場所をしらみつぶしに探しまわるのだった。
 しかし、オデットの紹介でフォルシュヴィル伯爵がヴェルデュラン家にあらわれるようになって、状況に変化が生じる。フォルシュヴィル伯爵は貴族でありながらも俗悪な冗談が好きな軽薄な人物で、たちまちヴェルデュラン夫妻の気に入るところとなり、シックなスワンは逆に疎まれ始める。
 ヴェルデュラン夫妻はスワンを除け者にしてオデットを晩餐や旅行に招待するようになり、オデットはオデットで、浮気の疑惑を詰問するスワンを鬱陶しく思いはじめる。スワンは恋の苦しみにさいなまれる。

 オデットとスワンの心はどんどんずれてゆき、スワンの苦悩はますます深まってゆく。
そんなある日、スワンは久々に足を運んだサン=トゥーヴェルト侯爵夫人のサロン(ヴェルデュラン家の様なブルジョワではく本物の貴族のサロン)でオデットとの思い出が深いヴァントゥイユの音楽を耳にする。それを聞いたとたんに彼はオデットとの日々を思い出し胸をしめつけられるが、彼の精神は徐々に音楽に結びついたオデットの記憶から離れ、音楽それ自体の素晴らしさに向かい始める。


 音楽家に対して開かれている領域は、あのけちくさい七つの音の鍵盤ではなく、まだほとんど何も知られていない無限の鍵盤であることもわかっていた。その鍵盤はわずかにあちこち、鍵盤を構成する愛情、情熱、勇気、平静といった幾百万のキーのうちのいくつかが、未踏の厚い闇によってたがいに隔てられており、その各々は一つの宇宙が他の宇宙と異なるように他のキーと異なっているのであって、それらは何人かの偉大な作曲家に見出され、彼らは自分たちの見出したテーマに対応するものを我々の内に目ざめさせながら、こちらの知らぬうちに、我々が空虚であり虚無であると看做している自分たちの魂の、侵入する事のできない絶望的な大いなる夜が、どんな富、どんな変化を隠しているかを示してくれるのである。


 このように彼は天才とその芸術に関して一つの直感をするのである。
 後に《私》もまた、ヴァントゥイユの音楽によって芸術の本質についての直感をする事になる。ここはその先駆である。

 

 

 スワンの心も少しづつオデットから離れだした頃、スワンのもとに一通の匿名の手紙が届く。そこにはオデットがフォルシュヴィル伯爵やその他大勢の男達(のみならず女達)の愛人であったこと、また彼女が足しげく売春宿に出入りしていたという事が書かれており、それをオデットに問いただすと、彼女の答えからは色々なぼろが出てくるのだった。
 スワンは恋人の本性を知り衝撃を受けるが、その衝撃とともに彼の恋は急速にさめてゆく。
 そして、軽薄なオデットはそんなスワンをパリに残してヴェルデュラン夫妻達とともに一年がかりのヨットの旅に出てしまう。
しばらくして、スワンはフォルシュヴィル伯爵がオデットのパトロンだった事の確証をえるが、もはや彼には何の感情も湧いてこないのだった。

 

 生涯の何年かを無駄にしてしまった。死にたいなんて思ったのはバカだった、人生最大の恋だと思った事も……。僕を楽しませもしなければ、僕の趣味でもなかった女のために!


 そんな幻滅の独白とともに『スワンの恋』は終わる。

 

 

 

第三部 土地の名―名前

 

 

 この「土地の名前―名前」は、第二篇『花咲く乙女たちのかげに』第二部「土地の名前―土地」に対応する部分である。
「土地の名前―土地」が《私》が滞在した実際のバルベック(ノルマンディーの架空の土地 )での出来事について書かれた部分であるのに対し、この「土地の名前―名前」は実際にそこにある土地ではなく、認識者のイメージの中にある土地、つまり認識者が意味を見出すものとしての「土地の名前」について書かれた部分である。
 たとえば「パリ」という実在の土地の名が喚起させる「花の都」「芸術の香り高い都」といったイメージが、人々の心の中に再構築する「心のなかの都市」は、その名の通り想像の産物であって実際には存在せぬものである。しかし、「実在の土地」と「心の中の土地」のどちらが、はたして我々にとって真実の土地なのだろうか?――ということをプルーストは考えるのである。
 もちろん、われわれの外部に実在の土地はある。
それは哲学で一つのコップの存在について考えるとき、たとえ唯識論者であっても自分の感覚器によって知覚しているその存在を「世界は人間の意識によって構築されているものだからこのコップは存在しない」とは言えぬようなかたちで物質的にあるのである。
 しかし、「底のふさがった筒状のガラスでできたモノ」がそこにあるだけでは、われわれは「そこにコップがある」とは言えないのだ。(なぜ言えないのか?――という哲学的テーマはここでは省略する)
 

 「土地の名前―名前」の冒頭部分で《私》が語るのは、幼いころ眠れぬ夜に想像したさまざまな土地についてのイメージである。
 ちなみに、ここでの話法は過去の《私》が想像している土地について語る――という、語っている《今の私》から二段階隔たった距離感の事象が描かれるという面白い構造になっている。(こういった、《私》と「物語=世界」の距離感の演出は「失われた時を求めて」の随所にちりばめられている)

 

 病弱で空想好きの《私》は眠れぬ夜にベットで(恐らくパリの家の)、いまだ訪れたことのない有名な土地について思いを馳せるのであった。
 《私》が思い浮かべる土地のイメージはその土地を舞台にした文学や枕詞(花の都~、百合の花の都~)、名前の音の響き……といった象徴的なイメージである。この頃の《私》にとって、欲望は土地そのものよりも「土地の名」に深く結びついている――欲望は《私》の内側にあるのである。土地の名と結びついた欲望を「土地そのもの」に投げかけることによって、《私》にとってそれらの土地は非常に価値あるものとして現れる。(しかし、それは想像上で肥大したイメージとしてだけの価値なので、後に《私》が実際にその地に訪れた時、他のイタリア、フランスの町となんら変わらぬ それらの土地に大きく失望する原因となる)
 《私》の土地への欲望は、父が立てたイタリア旅行の計画によってより距離が縮まったかの様に思えた。しかし、あまりの興奮に高熱を出した《私》は医師に一年の間旅行を禁じられ、土地は再び「遠い」ものになってしまう。

 

 それから《私》は健康のため、毎日フランソワーズ(コンブレーのレオニ叔母が死んでから《私》の家の召使になった)に連れられてシャンゼリゼに散歩に出掛けるに様になる。シャンゼリゼの名前は《私》の欲望に何ら結びついておらず、彼にとって実にくだらない場所であった。
 そんなある日、《私》は一人の少女が「ジルベルト」と呼ばれるのを耳にする。
 それの少女はまさしくスワンの娘のジルベルトであった。その時からシャンゼリゼは《私》にとって非常に価値ある土地になり、ジルベルトと遊ぶ時間が彼には何より幸福な時間になる。
 しかし、気まぐれなジルベルトは《私》に優しい態度をとったかと思うと突然冷たくなったりして、《私》の心を苦しめるのだった。

 

 

<第二篇につづく>

 

 

それらの少女たちの間の区別はやがてはっきりしてくるのであろうが、とにかくこの時はまったく限界なしであって、彼女らの群を通 して、一種の調和をもった波動のようなもの、かたまって流れてゆく美の連続的移動が、こちらに伝わって来るだけなのであった。

 

 

第二篇「花咲く乙女たちのかげに」

 

 

 

 第二篇は第一部「スワン夫人をめぐって」と第二部「土地の名――土地」の二部構成である。

「スワン夫人をめぐって」の冒頭には

 

「人物の性格にもたらされる急変と方向転換。――ノルポワ侯爵。――ベルゴット。――私が一時ジルベルトに会うことをやめるいきさつ。ある別離がひきおこす悲しみと、忘却の不規則な進行に関する最初の軽い素描」

 

という要約がつけられている。

 

 

 

第一部 スワン夫人をめぐって

 

 

 物語は第一篇・第三部の続き。
相も変らずシャンゼリゼでジルベルトに会うことが何よりも楽しみな《私》は、ジルベルトに新年の休みにはシャンゼリゼに来られないと宣言され、悲しみの沼に沈む。
その失意を見かねた母は《私》が以前から崇拝している大女優ラ・ベルマの『フェードル』を聴きに行く事を許してくれる。
フェードルについて丹念に研究し、期待に胸を膨らませつつ《私》は祖母とともに劇場に行くが、実物のラ・ベルマを見た《私》は「あれほど望んでいた楽しみがそんなに大きくなかったという失望」を感じる。(欲望と失望のモチーフ)

 

 ラ・ベルマに失望した夜、父の友人である元大使のノルポワ侯爵が《私》の家へ晩餐にやってくる。晩餐の話題で《私》はラ・ベルマに感じた失望をノルポワに語るが、ノルポワはラ・ベルマに対するごく一般的な賛辞を滔々と語る。《私》は自分より慧眼であろうと思うノルポワの賛辞に、「やはりラ・ベルマは素晴らしいんだ。自分は失望なんかしていないんだ」と記憶を訂正する。また、《私》が文学指向であることも晩餐の話題にのぼるが、元外交官らしくノルポワは文学の素晴らしさを褒めそやし、《私》が文学の道に進むのもよいのではないかと言う。しかし、ノルポワは《私》がコンブレーで書いた散文詩を見せても無言で突き返したり、《私》が尊敬する作家ベルゴットの私生活に関するゴシップをおかしげに語ったりと、実際には《私》の文学に対する思いを殺ぐのであった。
 ノルポワはスワンについても語る。オデットと結婚してから、スワンは以前の一流社交界人としての姿からは考えられぬほど凋落している。上流の社交界とは付き合いが疎遠になり、高級官僚が訪ねてきたという程度のことを誇らしげに吹聴してまわる様な、彼は「オデットの夫」にふさわしい男になり下がっているらしい。
 《私》がノルポワにスワンの娘ジルベルトと面識がある事、言葉を交わした事はないが散歩中に見かけるスワン夫人(オデット)に大変好感をもっていることを告げると、彼はそのことをスワン夫人に伝えてくれると《私》に約束してくれる。もしかするとノルポワの口利きで憧れのスワン家に出入りできるのではないかと《私》は感激し、突然ノルポワに非常な好意を感じる。(しかし、ノルポワは社交辞令で言っているに過ぎなかったのである)

 そして新年の休みになり、予告通りジルベルトはシャンゼリゼから姿を消す。《私》はどうしてもジルベルトに会いたいと思う。しかし、会えない日々によってジルベルトの記憶が徐々に薄れてゆき、そして、また再び彼女に会うことによって《私》のジルベルトへの思いはふくらんでゆく。そんな恋愛の機微が次の一文に描かれる。

 

 愛する人を失い、その悲しみの対象を思い浮かべる力がないと感じた人たちは、もう悲しみをもたないのだと自分を責める様にさえなるのである。私も、ジルベルトの顔立ちが思い出せなかったので、もう彼女を忘れてしまったのだ、もう彼女を愛してはいないのだ、と信じそうになるのであった。
 しかし、彼女はまた毎日のように遊びにやってきた。そして、是非とも彼女にやってもらおう、是非とも彼女に頼もうと私が願う新しい事柄を、明日の楽しみとして私の前に置いてゆき、ほとんど毎日、そういう意味において、私の愛情から新しい一つの愛情を作り出してゆくのであった。


 しかし再会の喜びもつかの間、《私》はジルベルトから衝撃的な言葉を聞く。
「あのね、あなたは私のパパやママの受けがよくないわよ!」――甲高く笑いながら、ジルベルトは《私》に言ったのだった。
スワン夫妻は《私》をチンピラだと思い、娘に悪い影響しか及ぼさない人物だと想像していたのだった。《私》は誤解を解こうとスワンに宛てて十六枚にも及ぶ手紙を書くが、それは逆にスワンの心象をいっそう悪くするのだった。
 後日、ジルベルトはシャンゼリゼにスワンから返却された手紙を持ってくる。彼女の肉体に激しく惹き付けられる自分を感じた《私》は、彼女に手紙のとりあいっこを持ち掛け、肉体を接する事によって快楽を味わおうとする。
(全編を通じて、《私》は何度も遊戯にかこつけて快楽を味わおうとする。その、「快楽それ自身を目指した快楽」ではなく「遊戯にエロチックな快楽を見出す」という《私》の手法は、肉体的なだけでなく精神的なエロチシズムを多分に含むものとして描かれる)

 



 それからしばらくして、《私》は高熱を出してシャンゼリゼに行けなくなってしまう。
かかりつけの医師は発作が起こった時はアルコールを飲むようにと指示するが、厳格な祖母からアルコールを飲む許可を得るため、《私》は自分の発作を見せびらかすようにしなければならなかった。また、祖母のことを心から愛している《私》は自分の苦しみよりも祖母の悲しみを思いやって不安になるのだった。
 しかし《私》の発作は治まらず、家人はコタール医師に往診を依頼する。コタールはアルコールを禁じ、牛乳を摂るように指示するが、家人はコタールの見立てを訝ってアルコール療法を続ける。だが症状が悪化したので、ためしにコタールの処方にしたがってみると《私》の体は恢復する。(下らない俗物のコタールが実は医療に関して天賦の才能をもっている事が明らかになり、コタールの価値が転回する)

 

 病床にあった頃、《私》は一通の手紙を受け取る。
「装飾風に記されたGが、頭のないiの上に寄りかかってAのように見える」署名されたその手紙はジルベルトからのものだった。
(「GがAに見える署名」は一つの遠大な伏線であり、それは第六篇「逃げさる女」で回収される)
ジルベルトからの手紙には、今までとはうって変わってスワン夫妻が《私》をスワン家に招待したいと考えている事を告げ、スワン家のお茶への誘いが書かれていた。今まで道を閉ざされていたスワン家という「妖精の国」が、あらゆる予期に反して《私》に開かれたのである。
 なぜスワン家の門が私に開かれたのか――それには次の様な理由があった。
ノルポワが《私》の事をスワン夫人に話さなかったのに対して、コタールは《私》の友人でユダヤ人のブロックから《私》がスワン夫人に重く見られているという誤情報を聞き、スワン夫人の前で《私》を褒めれば自分の株が上がるだろうと目論み、それを実行に移したのである。

……この様に、第二篇では色々な人物の価値が目まぐるしく変化する。
「投げかけられる意味・価値」の変貌は「失われた時を求めて」全編を通して何度も描かれる一つの重要なテーマである。
スワンの凋落、ラ・ベルマの凋落、スワン夫人のサロンの台頭、ラシェルの台頭、そしてドレフュス事件による社交界の大転回など、社会的な価値の変貌から、「スワンの恋」や《私》の恋愛事件の様な個人的な価値の変貌まで、実に様々な価値や意味の変化がおこる。

 



 スワン家において、ジルベルトはもちろん、スワン、スワン夫人、そして作家ベルゴットとまでも《私》は親しく付き合う事が叶い、この上なく幸せな日々を送る。しかしある日、《私》の訪問によってジルベルトは楽しみにしていたダンスに行くことが出来なくなり、その事件から《私》は彼女に疎まれ始める。
《私》は何とかジルベルトと仲直りしようと画策するが、努力をすればするほど《私》の苦しみは深まる。《私》はシャンゼリゼを若い男と歩くジルベルトの姿を見て苦しんだりする。

 

 しかし、彼女と会わぬ日が続く事によって、ジルベルトとの幸福の日々の思い出は徐々に「忘却」されてゆくのだった。

 

 


第二部 「土地の名――土地」

 


 この部分は第一篇・第三部の「土地の名――名前」に対応している。
イメージの中の「名前」ではなく、実際の「土地」=バルベックでの出来事が描かれる。

 

……「スワン夫人をめぐって」でジルベルトと仲違いしてから二年の月日が流れ、もはやほとんどジルベルトに無関心になっていた《私》は祖母とフランソワーズと共にバルベックへと旅に出る。
「土地の名――名前」の頃に時刻表を見ながら夢想していた一時二十二分の汽車に乗って、《私》は実際のバルベックにやって来る。バルベックに到着すると、いつものごとく、《私》は「欲望の距離感」から生じるズレによる失望を感じる。
 
 また、この冒頭では「記憶の距離感」が時間の「間歇性〔一定の間隔をおいて起こったりやんだりすること〕」という言葉によって説明される。
(『失われた時を求めて』はもともと『心情の間歇』という題名だった。「間歇的なもの」として、プルーストは時間と世界を捉えるのである)
時間の間歇性は、次の様に描かれる。

 


 しばしば私は(我々の一生は年代順になっている事はめずらしく、月日の流れには時代錯誤が随分沢山入り込んでいるので)、昨日や一昨日よりもはるかに遠い日々、私がまだジルベルトを愛していた日々に生きていることがあった。そんな時、もう彼女に会えないという気持ちが、その当時とそっくりに、私を急に苦痛におとしいれるのだった。
彼女を愛していた自我は、既に他の自我にほとんど完全に取って代わられているのに、その古い自我が再び現れてくるのだ。

 

 

 バルベックでは、まるで幼児の世話をする様に祖母が《私》の世話を焼いてくれる。ホテルで隣の部屋にいる祖母は、《私》が壁を三度ノックするといつも彼の部屋にやって来てくれるのだった。
 《私》たちが宿泊するバルベック=グランドホテルにはエメと呼ばれる給仕長がおり(後に重要な役割を演じる)、また、田舎名士たちが貴族社会を気取った小さなグループを作ったりしている。知り合いのいないその土地で《私》たちは孤立して過ごすが、ある日、偶然にも祖母が女学校時代の友人ヴィルパリジ侯爵夫人と再会し、《私》たちは彼女とバルベックでの日々を共に過ごす事になる。その老婦人の存在は《私》にとって取り立てて魅力的なものではないが、彼女の親戚 のロベール・ド・サン=ルー侯爵がバルベックに来訪し、《私》はその美貌の貴公子と深い友情で結ばれるようになる。また、彼の叔父シャルリュス男爵の登場によって、ヴィルパリジ侯爵夫人が実はあのゲルマント一族の人間であることが判明する。当然《私》にとってヴィルパリジ侯爵夫人の価値が大きく転回する。

 

 ここから、《私》の「ゲルマントの方」との付き合いが徐々に始まる。

 


 


 サン=ルーが叔父シャルリュス男爵の到着を楽しみに待っている頃、《私》はホテルのカジノの前で誰かに見つめられている視線を感じる。振り返るとそこには「非常に背の高い、かなりふとった、真っ黒な口ひげの、四十がらみの男」がおり、ズボンを細いステッキで神経質にたたきながら「注意をこめて見開かれた目」で《私》を見ていた。悟られた事に気が付いた男は「お前は人の注意をひくほど大した人間ではない、そんなお前をおれは見ていたのではない」というようなそぶりで《私》から目をそらす。
 それから一時間後、《私》と祖母はさっきの男がサン=ルーとヴィルパリジ夫人と一緒にいるところに出会う。その男はヴィルパリジ夫人からシャルリュス男爵として紹介されるが、彼は《私》のことなど初めて見たというような無関心な様子を見せ、《私》には一言も言葉をかけずに離れてゆく。《私》はサン=ルーからシャルリュス男爵が高貴の生まれに固執する誇り高い人物である事、大公の称号も名乗れるのにあえてシャルリュス男爵(フランス一古い家名だという)を名乗っている事、そして彼があのスワンの大親友である事などを聞かされる。しばらくして、サン=ルーとヴィルパリジ侯爵夫人が祖母に話しかけているとき、シャルリュス男爵はふと《私》に近寄り「今晩ヴィルパリジの部屋でお茶をするので、お祖母様といらして下さい」と言う。
 それがシャルリュス男爵の失礼な態度の埋め合わせなのだと了解した《私》は、その夜祖母とともにヴィルパリジ夫人の部屋に行くが、シャルリュス男爵は《私》たちを招待されていない、偶然に訪れた客の様に迎える。疑問に思った《私》はシャルリュス男爵に質問するが、彼はまたしても《私》に一言も口をきかないのであった。
 お茶が終わって《私》が部屋に帰ると、突然シャルリュス男爵がやってきて《私》が好きだと話した作家ベルゴットの本を貸してくれる。彼はそれまでとは打って変わった優しい調子で青春の素晴らしさについてしばし語るが、ふたたび冷ややかな声で「おやすみ」と言い放って部屋を出ていく。
 翌日、シャルリュス男爵は《私》を口汚く罵ったり、急に本を返せと言ったり、返した本を再びプレゼントしてきたりと、奇妙な行動をみせてからバルベックを去ってゆくのだった。(彼の奇行の原因は後に明らかになる)


 


 それから、《私》とサン=ルーはユダヤ人の友人ブロック家の夕食に招かれたり、レストランで画家のエスチールと知りあいになったりする日々を過ごす。また、ある日サン=ルーに写真を撮ってもらうために年甲斐もなくめかしこむ祖母に《私》は心無い言葉を投げ付け、祖母の心を傷つける。それからしばらくの間、《私》は祖母に避けらているような気がし、部屋の壁をノックしても祖母が来なくなるので悲しい思いをする。

 そんなある日、《私》は堤防の上を我がもの顔で闊歩する、健康的で、若く、美しく、傲慢な感じのする五、六人の少女たちの一群を目にする。《私》は彼女らに非常な興味を覚える。

 


 それらの少女たちの間の区別はやがてはっきりしてくるのであろうが、とにかくこの時はまったく限界なしであって、彼女らの群を通して、一種の調和をもった波動のようなもの、かたまって流れてゆく美の連続的移動が、こちらに伝わってくるだけなのであった。


 

 少女たちの一群をしばらく観察しているうちに、《私》は混じりあっていた美の印象を個々の少女の面影の上に分配したり整理したりできるようになる。また、《私》は彼女らを観察している時に誰かが「あれはシモネの娘さんのお友達よ」というのを耳にし、シモネという名前を少女たちと結び付けて心に刻み込む。漠然とした美の印象は徐々に個別的なものとなり、一つの「名前」が《私》に新しい欲望を結晶させる。
 あくる日、《私》はバルベックの常連客にシモネの名について、例の少女たちについての情報を訊ねてまわるが、答えは得られない。その日から《私》は彼女らが通るのを心待ちにして堤防の上で時間を過ごすようになる。画家エスチールのアトリエ訪問を延期してまで少女たちを待つ《私》を祖母は嘆かわしく思う。
 少女たちと再び出会う機会のないまま、《私》は後ろ髪ひかれながらバルベック郊外のエスチールのアトリエを訪れる。しかし、そのアトリエの窓の外を例の少女の一人が通りかかりエスチールに挨拶をする。彼女たちはエスチールの知り合いであった事が判明し、その少女の名がアルベルチーヌ・シモネであること、他の少女たちはアンドレ、ジゼル、ロズモンドなどという名前である事が分かり、《私》は思いもよらぬ進展に歓喜する。
また、エスチールのアトリエで《私》は『ミス・サクリパン』と書かれたスワン夫人の肖像画を見つけ、エスチールが実はヴェルデュランのサロンに出入りしていたムッシュー・ピッシュというあだ名の画家であった事も判明する。

 

 エスチールにアルベルチーヌを紹介してもらい、《私》は彼女をはじめとする少女の一群との付き合いを始める。
アルベルチーヌに対する、《私》の「第二の恋の物語」が始まるが、アルベルチーヌはジルベルトにもまして気まぐれな少女で(孤児の彼女は中産階級のボンタン家で育てられている )、ときには奔放な「バッカスの巫女」であり、ときには「育ちのいい娘」であるという性格をみせる。
 彼女は「あなたが好きよ」と書いた紙を《私》に手渡したり、また、遊戯にかこつけて手を握り続ける《私》に激怒したり、《私》にはなかなか本心がわからない。

 ある日、《私》が滞在しているホテルにアルベルチーヌが一人で泊まる用事ができ、彼女は《私》に「私がベットで夕食をとる時そばに来てもいいことよ、その後であなたのお好きな事をして遊びましょう」と告げる。それをアルベルチーヌの誘惑だと受け取った《私》は、その夜彼女の部屋を訪れベットの上の彼女に飛びかろうとする。
しかし、飛びかかろうとする《私》の姿を見てとったアルベルチーヌは力いっぱい呼び鈴を鳴らしたのだった。

 



 しばらくしてアルベルチーヌは《私》の行為を赦してくれるが、以後なんの進展もないまま彼女は突然パリに帰ってしまう。そのうちシーズンが終わり、客たちが次々バルベックを去るなか《私》たちはしばらくのあいだ閑散としたバルベックに残る。

 

 やがてパリに帰った《私》がバルベックに関して思いだす記憶は、カーテンを閉めきったホテルの部屋で病に伏せ、外から聞こえてくる音からアルベルチーヌや女友達の姿を思い描く自分の姿なのであった。
 

 

 

 

<第三篇につづく>

 

 

それらの少女たちの間の区別はやがてはっきりしてくるのであろうが、とにかくこの時はまったく限界なしであって、彼女らの群を通 して、一種の調和をもった波動のようなもの、かたまって流れてゆく美の連続的移動が、こちらに伝わって来るだけなのであった。

 

 

第二篇「花咲く乙女たちのかげに」

 

 

 

 第二篇は第一部「スワン夫人をめぐって」と第二部「土地の名――土地」の二部構成である。

「スワン夫人をめぐって」の冒頭には

 

「人物の性格にもたらされる急変と方向転換。――ノルポワ侯爵。――ベルゴット。――私が一時ジルベルトに会うことをやめるいきさつ。ある別離がひきおこす悲しみと、忘却の不規則な進行に関する最初の軽い素描」

 

という要約がつけられている。

 

 

 

第一部 スワン夫人をめぐって

 

 

 物語は第一篇・第三部の続き。
相も変らずシャンゼリゼでジルベルトに会うことが何よりも楽しみな《私》は、ジルベルトに新年の休みにはシャンゼリゼに来られないと宣言され、悲しみの沼に沈む。
その失意を見かねた母は《私》が以前から崇拝している大女優ラ・ベルマの『フェードル』を聴きに行く事を許してくれる。
フェードルについて丹念に研究し、期待に胸を膨らませつつ《私》は祖母とともに劇場に行くが、実物のラ・ベルマを見た《私》は「あれほど望んでいた楽しみがそんなに大きくなかったという失望」を感じる。(欲望と失望のモチーフ)

 

 ラ・ベルマに失望した夜、父の友人である元大使のノルポワ侯爵が《私》の家へ晩餐にやってくる。晩餐の話題で《私》はラ・ベルマに感じた失望をノルポワに語るが、ノルポワはラ・ベルマに対するごく一般的な賛辞を滔々と語る。《私》は自分より慧眼であろうと思うノルポワの賛辞に、「やはりラ・ベルマは素晴らしいんだ。自分は失望なんかしていないんだ」と記憶を訂正する。また、《私》が文学指向であることも晩餐の話題にのぼるが、元外交官らしくノルポワは文学の素晴らしさを褒めそやし、《私》が文学の道に進むのもよいのではないかと言う。しかし、ノルポワは《私》がコンブレーで書いた散文詩を見せても無言で突き返したり、《私》が尊敬する作家ベルゴットの私生活に関するゴシップをおかしげに語ったりと、実際には《私》の文学に対する思いを殺ぐのであった。
 ノルポワはスワンについても語る。オデットと結婚してから、スワンは以前の一流社交界人としての姿からは考えられぬほど凋落している。上流の社交界とは付き合いが疎遠になり、高級官僚が訪ねてきたという程度のことを誇らしげに吹聴してまわる様な、彼は「オデットの夫」にふさわしい男になり下がっているらしい。
 《私》がノルポワにスワンの娘ジルベルトと面識がある事、言葉を交わした事はないが散歩中に見かけるスワン夫人(オデット)に大変好感をもっていることを告げると、彼はそのことをスワン夫人に伝えてくれると《私》に約束してくれる。もしかするとノルポワの口利きで憧れのスワン家に出入りできるのではないかと《私》は感激し、突然ノルポワに非常な好意を感じる。(しかし、ノルポワは社交辞令で言っているに過ぎなかったのである)

 そして新年の休みになり、予告通りジルベルトはシャンゼリゼから姿を消す。《私》はどうしてもジルベルトに会いたいと思う。しかし、会えない日々によってジルベルトの記憶が徐々に薄れてゆき、そして、また再び彼女に会うことによって《私》のジルベルトへの思いはふくらんでゆく。そんな恋愛の機微が次の一文に描かれる。

 

 愛する人を失い、その悲しみの対象を思い浮かべる力がないと感じた人たちは、もう悲しみをもたないのだと自分を責める様にさえなるのである。私も、ジルベルトの顔立ちが思い出せなかったので、もう彼女を忘れてしまったのだ、もう彼女を愛してはいないのだ、と信じそうになるのであった。
 しかし、彼女はまた毎日のように遊びにやってきた。そして、是非とも彼女にやってもらおう、是非とも彼女に頼もうと私が願う新しい事柄を、明日の楽しみとして私の前に置いてゆき、ほとんど毎日、そういう意味において、私の愛情から新しい一つの愛情を作り出してゆくのであった。


 しかし再会の喜びもつかの間、《私》はジルベルトから衝撃的な言葉を聞く。
「あのね、あなたは私のパパやママの受けがよくないわよ!」――甲高く笑いながら、ジルベルトは《私》に言ったのだった。
スワン夫妻は《私》をチンピラだと思い、娘に悪い影響しか及ぼさない人物だと想像していたのだった。《私》は誤解を解こうとスワンに宛てて十六枚にも及ぶ手紙を書くが、それは逆にスワンの心象をいっそう悪くするのだった。
 後日、ジルベルトはシャンゼリゼにスワンから返却された手紙を持ってくる。彼女の肉体に激しく惹き付けられる自分を感じた《私》は、彼女に手紙のとりあいっこを持ち掛け、肉体を接する事によって快楽を味わおうとする。
(全編を通じて、《私》は何度も遊戯にかこつけて快楽を味わおうとする。その、「快楽それ自身を目指した快楽」ではなく「遊戯にエロチックな快楽を見出す」という《私》の手法は、肉体的なだけでなく精神的なエロチシズムを多分に含むものとして描かれる)

 



 それからしばらくして、《私》は高熱を出してシャンゼリゼに行けなくなってしまう。
かかりつけの医師は発作が起こった時はアルコールを飲むようにと指示するが、厳格な祖母からアルコールを飲む許可を得るため、《私》は自分の発作を見せびらかすようにしなければならなかった。また、祖母のことを心から愛している《私》は自分の苦しみよりも祖母の悲しみを思いやって不安になるのだった。
 しかし《私》の発作は治まらず、家人はコタール医師に往診を依頼する。コタールはアルコールを禁じ、牛乳を摂るように指示するが、家人はコタールの見立てを訝ってアルコール療法を続ける。だが症状が悪化したので、ためしにコタールの処方にしたがってみると《私》の体は恢復する。(下らない俗物のコタールが実は医療に関して天賦の才能をもっている事が明らかになり、コタールの価値が転回する)

 

 病床にあった頃、《私》は一通の手紙を受け取る。
「装飾風に記されたGが、頭のないiの上に寄りかかってAのように見える」署名されたその手紙はジルベルトからのものだった。
(「GがAに見える署名」は一つの遠大な伏線であり、それは第六篇「逃げさる女」で回収される)
ジルベルトからの手紙には、今までとはうって変わってスワン夫妻が《私》をスワン家に招待したいと考えている事を告げ、スワン家のお茶への誘いが書かれていた。今まで道を閉ざされていたスワン家という「妖精の国」が、あらゆる予期に反して《私》に開かれたのである。
 なぜスワン家の門が私に開かれたのか――それには次の様な理由があった。
ノルポワが《私》の事をスワン夫人に話さなかったのに対して、コタールは《私》の友人でユダヤ人のブロックから《私》がスワン夫人に重く見られているという誤情報を聞き、スワン夫人の前で《私》を褒めれば自分の株が上がるだろうと目論み、それを実行に移したのである。

……この様に、第二篇では色々な人物の価値が目まぐるしく変化する。
「投げかけられる意味・価値」の変貌は「失われた時を求めて」全編を通して何度も描かれる一つの重要なテーマである。
スワンの凋落、ラ・ベルマの凋落、スワン夫人のサロンの台頭、ラシェルの台頭、そしてドレフュス事件による社交界の大転回など、社会的な価値の変貌から、「スワンの恋」や《私》の恋愛事件の様な個人的な価値の変貌まで、実に様々な価値や意味の変化がおこる。

 



 スワン家において、ジルベルトはもちろん、スワン、スワン夫人、そして作家ベルゴットとまでも《私》は親しく付き合う事が叶い、この上なく幸せな日々を送る。しかしある日、《私》の訪問によってジルベルトは楽しみにしていたダンスに行くことが出来なくなり、その事件から《私》は彼女に疎まれ始める。
《私》は何とかジルベルトと仲直りしようと画策するが、努力をすればするほど《私》の苦しみは深まる。《私》はシャンゼリゼを若い男と歩くジルベルトの姿を見て苦しんだりする。

 

 しかし、彼女と会わぬ日が続く事によって、ジルベルトとの幸福の日々の思い出は徐々に「忘却」されてゆくのだった。

 

 


第二部 「土地の名――土地」

 


 この部分は第一篇・第三部の「土地の名――名前」に対応している。
イメージの中の「名前」ではなく、実際の「土地」=バルベックでの出来事が描かれる。

 

……「スワン夫人をめぐって」でジルベルトと仲違いしてから二年の月日が流れ、もはやほとんどジルベルトに無関心になっていた《私》は祖母とフランソワーズと共にバルベックへと旅に出る。
「土地の名――名前」の頃に時刻表を見ながら夢想していた一時二十二分の汽車に乗って、《私》は実際のバルベックにやって来る。バルベックに到着すると、いつものごとく、《私》は「欲望の距離感」から生じるズレによる失望を感じる。
 
 また、この冒頭では「記憶の距離感」が時間の「間歇性〔一定の間隔をおいて起こったりやんだりすること〕」という言葉によって説明される。
(『失われた時を求めて』はもともと『心情の間歇』という題名だった。「間歇的なもの」として、プルーストは時間と世界を捉えるのである)
時間の間歇性は、次の様に描かれる。

 


 しばしば私は(我々の一生は年代順になっている事はめずらしく、月日の流れには時代錯誤が随分沢山入り込んでいるので)、昨日や一昨日よりもはるかに遠い日々、私がまだジルベルトを愛していた日々に生きていることがあった。そんな時、もう彼女に会えないという気持ちが、その当時とそっくりに、私を急に苦痛におとしいれるのだった。
彼女を愛していた自我は、既に他の自我にほとんど完全に取って代わられているのに、その古い自我が再び現れてくるのだ。

 

 

 バルベックでは、まるで幼児の世話をする様に祖母が《私》の世話を焼いてくれる。ホテルで隣の部屋にいる祖母は、《私》が壁を三度ノックするといつも彼の部屋にやって来てくれるのだった。
 《私》たちが宿泊するバルベック=グランドホテルにはエメと呼ばれる給仕長がおり(後に重要な役割を演じる)、また、田舎名士たちが貴族社会を気取った小さなグループを作ったりしている。知り合いのいないその土地で《私》たちは孤立して過ごすが、ある日、偶然にも祖母が女学校時代の友人ヴィルパリジ侯爵夫人と再会し、《私》たちは彼女とバルベックでの日々を共に過ごす事になる。その老婦人の存在は《私》にとって取り立てて魅力的なものではないが、彼女の親戚 のロベール・ド・サン=ルー侯爵がバルベックに来訪し、《私》はその美貌の貴公子と深い友情で結ばれるようになる。また、彼の叔父シャルリュス男爵の登場によって、ヴィルパリジ侯爵夫人が実はあのゲルマント一族の人間であることが判明する。当然《私》にとってヴィルパリジ侯爵夫人の価値が大きく転回する。

 

 ここから、《私》の「ゲルマントの方」との付き合いが徐々に始まる。

 


 


 サン=ルーが叔父シャルリュス男爵の到着を楽しみに待っている頃、《私》はホテルのカジノの前で誰かに見つめられている視線を感じる。振り返るとそこには「非常に背の高い、かなりふとった、真っ黒な口ひげの、四十がらみの男」がおり、ズボンを細いステッキで神経質にたたきながら「注意をこめて見開かれた目」で《私》を見ていた。悟られた事に気が付いた男は「お前は人の注意をひくほど大した人間ではない、そんなお前をおれは見ていたのではない」というようなそぶりで《私》から目をそらす。
 それから一時間後、《私》と祖母はさっきの男がサン=ルーとヴィルパリジ夫人と一緒にいるところに出会う。その男はヴィルパリジ夫人からシャルリュス男爵として紹介されるが、彼は《私》のことなど初めて見たというような無関心な様子を見せ、《私》には一言も言葉をかけずに離れてゆく。《私》はサン=ルーからシャルリュス男爵が高貴の生まれに固執する誇り高い人物である事、大公の称号も名乗れるのにあえてシャルリュス男爵(フランス一古い家名だという)を名乗っている事、そして彼があのスワンの大親友である事などを聞かされる。しばらくして、サン=ルーとヴィルパリジ侯爵夫人が祖母に話しかけているとき、シャルリュス男爵はふと《私》に近寄り「今晩ヴィルパリジの部屋でお茶をするので、お祖母様といらして下さい」と言う。
 それがシャルリュス男爵の失礼な態度の埋め合わせなのだと了解した《私》は、その夜祖母とともにヴィルパリジ夫人の部屋に行くが、シャルリュス男爵は《私》たちを招待されていない、偶然に訪れた客の様に迎える。疑問に思った《私》はシャルリュス男爵に質問するが、彼はまたしても《私》に一言も口をきかないのであった。
 お茶が終わって《私》が部屋に帰ると、突然シャルリュス男爵がやってきて《私》が好きだと話した作家ベルゴットの本を貸してくれる。彼はそれまでとは打って変わった優しい調子で青春の素晴らしさについてしばし語るが、ふたたび冷ややかな声で「おやすみ」と言い放って部屋を出ていく。
 翌日、シャルリュス男爵は《私》を口汚く罵ったり、急に本を返せと言ったり、返した本を再びプレゼントしてきたりと、奇妙な行動をみせてからバルベックを去ってゆくのだった。(彼の奇行の原因は後に明らかになる)


 


 それから、《私》とサン=ルーはユダヤ人の友人ブロック家の夕食に招かれたり、レストランで画家のエスチールと知りあいになったりする日々を過ごす。また、ある日サン=ルーに写真を撮ってもらうために年甲斐もなくめかしこむ祖母に《私》は心無い言葉を投げ付け、祖母の心を傷つける。それからしばらくの間、《私》は祖母に避けらているような気がし、部屋の壁をノックしても祖母が来なくなるので悲しい思いをする。

 そんなある日、《私》は堤防の上を我がもの顔で闊歩する、健康的で、若く、美しく、傲慢な感じのする五、六人の少女たちの一群を目にする。《私》は彼女らに非常な興味を覚える。

 


 それらの少女たちの間の区別はやがてはっきりしてくるのであろうが、とにかくこの時はまったく限界なしであって、彼女らの群を通して、一種の調和をもった波動のようなもの、かたまって流れてゆく美の連続的移動が、こちらに伝わってくるだけなのであった。


 

 少女たちの一群をしばらく観察しているうちに、《私》は混じりあっていた美の印象を個々の少女の面影の上に分配したり整理したりできるようになる。また、《私》は彼女らを観察している時に誰かが「あれはシモネの娘さんのお友達よ」というのを耳にし、シモネという名前を少女たちと結び付けて心に刻み込む。漠然とした美の印象は徐々に個別的なものとなり、一つの「名前」が《私》に新しい欲望を結晶させる。
 あくる日、《私》はバルベックの常連客にシモネの名について、例の少女たちについての情報を訊ねてまわるが、答えは得られない。その日から《私》は彼女らが通るのを心待ちにして堤防の上で時間を過ごすようになる。画家エスチールのアトリエ訪問を延期してまで少女たちを待つ《私》を祖母は嘆かわしく思う。
 少女たちと再び出会う機会のないまま、《私》は後ろ髪ひかれながらバルベック郊外のエスチールのアトリエを訪れる。しかし、そのアトリエの窓の外を例の少女の一人が通りかかりエスチールに挨拶をする。彼女たちはエスチールの知り合いであった事が判明し、その少女の名がアルベルチーヌ・シモネであること、他の少女たちはアンドレ、ジゼル、ロズモンドなどという名前である事が分かり、《私》は思いもよらぬ進展に歓喜する。
また、エスチールのアトリエで《私》は『ミス・サクリパン』と書かれたスワン夫人の肖像画を見つけ、エスチールが実はヴェルデュランのサロンに出入りしていたムッシュー・ピッシュというあだ名の画家であった事も判明する。

 

 エスチールにアルベルチーヌを紹介してもらい、《私》は彼女をはじめとする少女の一群との付き合いを始める。
アルベルチーヌに対する、《私》の「第二の恋の物語」が始まるが、アルベルチーヌはジルベルトにもまして気まぐれな少女で(孤児の彼女は中産階級のボンタン家で育てられている )、ときには奔放な「バッカスの巫女」であり、ときには「育ちのいい娘」であるという性格をみせる。
 彼女は「あなたが好きよ」と書いた紙を《私》に手渡したり、また、遊戯にかこつけて手を握り続ける《私》に激怒したり、《私》にはなかなか本心がわからない。

 ある日、《私》が滞在しているホテルにアルベルチーヌが一人で泊まる用事ができ、彼女は《私》に「私がベットで夕食をとる時そばに来てもいいことよ、その後であなたのお好きな事をして遊びましょう」と告げる。それをアルベルチーヌの誘惑だと受け取った《私》は、その夜彼女の部屋を訪れベットの上の彼女に飛びかろうとする。
しかし、飛びかかろうとする《私》の姿を見てとったアルベルチーヌは力いっぱい呼び鈴を鳴らしたのだった。

 



 しばらくしてアルベルチーヌは《私》の行為を赦してくれるが、以後なんの進展もないまま彼女は突然パリに帰ってしまう。そのうちシーズンが終わり、客たちが次々バルベックを去るなか《私》たちはしばらくのあいだ閑散としたバルベックに残る。

 

 やがてパリに帰った《私》がバルベックに関して思いだす記憶は、カーテンを閉めきったホテルの部屋で病に伏せ、外から聞こえてくる音からアルベルチーヌや女友達の姿を思い描く自分の姿なのであった。
 

 

 

 

<第三篇につづく>

 

 

それらの少女たちの間の区別はやがてはっきりしてくるのであろうが、とにかくこの時はまったく限界なしであって、彼女らの群を通 して、一種の調和をもった波動のようなもの、かたまって流れてゆく美の連続的移動が、こちらに伝わって来るだけなのであった。

 

 

第二篇「花咲く乙女たちのかげに」

 

 

 

 第二篇は第一部「スワン夫人をめぐって」と第二部「土地の名――土地」の二部構成である。

「スワン夫人をめぐって」の冒頭には

 

「人物の性格にもたらされる急変と方向転換。――ノルポワ侯爵。――ベルゴット。――私が一時ジルベルトに会うことをやめるいきさつ。ある別離がひきおこす悲しみと、忘却の不規則な進行に関する最初の軽い素描」

 

という要約がつけられている。

 

 

 

第一部 スワン夫人をめぐって

 

 

 物語は第一篇・第三部の続き。
相も変らずシャンゼリゼでジルベルトに会うことが何よりも楽しみな《私》は、ジルベルトに新年の休みにはシャンゼリゼに来られないと宣言され、悲しみの沼に沈む。
その失意を見かねた母は《私》が以前から崇拝している大女優ラ・ベルマの『フェードル』を聴きに行く事を許してくれる。
フェードルについて丹念に研究し、期待に胸を膨らませつつ《私》は祖母とともに劇場に行くが、実物のラ・ベルマを見た《私》は「あれほど望んでいた楽しみがそんなに大きくなかったという失望」を感じる。(欲望と失望のモチーフ)

 

 ラ・ベルマに失望した夜、父の友人である元大使のノルポワ侯爵が《私》の家へ晩餐にやってくる。晩餐の話題で《私》はラ・ベルマに感じた失望をノルポワに語るが、ノルポワはラ・ベルマに対するごく一般的な賛辞を滔々と語る。《私》は自分より慧眼であろうと思うノルポワの賛辞に、「やはりラ・ベルマは素晴らしいんだ。自分は失望なんかしていないんだ」と記憶を訂正する。また、《私》が文学指向であることも晩餐の話題にのぼるが、元外交官らしくノルポワは文学の素晴らしさを褒めそやし、《私》が文学の道に進むのもよいのではないかと言う。しかし、ノルポワは《私》がコンブレーで書いた散文詩を見せても無言で突き返したり、《私》が尊敬する作家ベルゴットの私生活に関するゴシップをおかしげに語ったりと、実際には《私》の文学に対する思いを殺ぐのであった。
 ノルポワはスワンについても語る。オデットと結婚してから、スワンは以前の一流社交界人としての姿からは考えられぬほど凋落している。上流の社交界とは付き合いが疎遠になり、高級官僚が訪ねてきたという程度のことを誇らしげに吹聴してまわる様な、彼は「オデットの夫」にふさわしい男になり下がっているらしい。
 《私》がノルポワにスワンの娘ジルベルトと面識がある事、言葉を交わした事はないが散歩中に見かけるスワン夫人(オデット)に大変好感をもっていることを告げると、彼はそのことをスワン夫人に伝えてくれると《私》に約束してくれる。もしかするとノルポワの口利きで憧れのスワン家に出入りできるのではないかと《私》は感激し、突然ノルポワに非常な好意を感じる。(しかし、ノルポワは社交辞令で言っているに過ぎなかったのである)

 そして新年の休みになり、予告通りジルベルトはシャンゼリゼから姿を消す。《私》はどうしてもジルベルトに会いたいと思う。しかし、会えない日々によってジルベルトの記憶が徐々に薄れてゆき、そして、また再び彼女に会うことによって《私》のジルベルトへの思いはふくらんでゆく。そんな恋愛の機微が次の一文に描かれる。

 

 愛する人を失い、その悲しみの対象を思い浮かべる力がないと感じた人たちは、もう悲しみをもたないのだと自分を責める様にさえなるのである。私も、ジルベルトの顔立ちが思い出せなかったので、もう彼女を忘れてしまったのだ、もう彼女を愛してはいないのだ、と信じそうになるのであった。
 しかし、彼女はまた毎日のように遊びにやってきた。そして、是非とも彼女にやってもらおう、是非とも彼女に頼もうと私が願う新しい事柄を、明日の楽しみとして私の前に置いてゆき、ほとんど毎日、そういう意味において、私の愛情から新しい一つの愛情を作り出してゆくのであった。


 しかし再会の喜びもつかの間、《私》はジルベルトから衝撃的な言葉を聞く。
「あのね、あなたは私のパパやママの受けがよくないわよ!」――甲高く笑いながら、ジルベルトは《私》に言ったのだった。
スワン夫妻は《私》をチンピラだと思い、娘に悪い影響しか及ぼさない人物だと想像していたのだった。《私》は誤解を解こうとスワンに宛てて十六枚にも及ぶ手紙を書くが、それは逆にスワンの心象をいっそう悪くするのだった。
 後日、ジルベルトはシャンゼリゼにスワンから返却された手紙を持ってくる。彼女の肉体に激しく惹き付けられる自分を感じた《私》は、彼女に手紙のとりあいっこを持ち掛け、肉体を接する事によって快楽を味わおうとする。
(全編を通じて、《私》は何度も遊戯にかこつけて快楽を味わおうとする。その、「快楽それ自身を目指した快楽」ではなく「遊戯にエロチックな快楽を見出す」という《私》の手法は、肉体的なだけでなく精神的なエロチシズムを多分に含むものとして描かれる)

 



 それからしばらくして、《私》は高熱を出してシャンゼリゼに行けなくなってしまう。
かかりつけの医師は発作が起こった時はアルコールを飲むようにと指示するが、厳格な祖母からアルコールを飲む許可を得るため、《私》は自分の発作を見せびらかすようにしなければならなかった。また、祖母のことを心から愛している《私》は自分の苦しみよりも祖母の悲しみを思いやって不安になるのだった。
 しかし《私》の発作は治まらず、家人はコタール医師に往診を依頼する。コタールはアルコールを禁じ、牛乳を摂るように指示するが、家人はコタールの見立てを訝ってアルコール療法を続ける。だが症状が悪化したので、ためしにコタールの処方にしたがってみると《私》の体は恢復する。(下らない俗物のコタールが実は医療に関して天賦の才能をもっている事が明らかになり、コタールの価値が転回する)

 

 病床にあった頃、《私》は一通の手紙を受け取る。
「装飾風に記されたGが、頭のないiの上に寄りかかってAのように見える」署名されたその手紙はジルベルトからのものだった。
(「GがAに見える署名」は一つの遠大な伏線であり、それは第六篇「逃げさる女」で回収される)
ジルベルトからの手紙には、今までとはうって変わってスワン夫妻が《私》をスワン家に招待したいと考えている事を告げ、スワン家のお茶への誘いが書かれていた。今まで道を閉ざされていたスワン家という「妖精の国」が、あらゆる予期に反して《私》に開かれたのである。
 なぜスワン家の門が私に開かれたのか――それには次の様な理由があった。
ノルポワが《私》の事をスワン夫人に話さなかったのに対して、コタールは《私》の友人でユダヤ人のブロックから《私》がスワン夫人に重く見られているという誤情報を聞き、スワン夫人の前で《私》を褒めれば自分の株が上がるだろうと目論み、それを実行に移したのである。

……この様に、第二篇では色々な人物の価値が目まぐるしく変化する。
「投げかけられる意味・価値」の変貌は「失われた時を求めて」全編を通して何度も描かれる一つの重要なテーマである。
スワンの凋落、ラ・ベルマの凋落、スワン夫人のサロンの台頭、ラシェルの台頭、そしてドレフュス事件による社交界の大転回など、社会的な価値の変貌から、「スワンの恋」や《私》の恋愛事件の様な個人的な価値の変貌まで、実に様々な価値や意味の変化がおこる。

 



 スワン家において、ジルベルトはもちろん、スワン、スワン夫人、そして作家ベルゴットとまでも《私》は親しく付き合う事が叶い、この上なく幸せな日々を送る。しかしある日、《私》の訪問によってジルベルトは楽しみにしていたダンスに行くことが出来なくなり、その事件から《私》は彼女に疎まれ始める。
《私》は何とかジルベルトと仲直りしようと画策するが、努力をすればするほど《私》の苦しみは深まる。《私》はシャンゼリゼを若い男と歩くジルベルトの姿を見て苦しんだりする。

 

 しかし、彼女と会わぬ日が続く事によって、ジルベルトとの幸福の日々の思い出は徐々に「忘却」されてゆくのだった。

 

 


第二部 「土地の名――土地」

 


 この部分は第一篇・第三部の「土地の名――名前」に対応している。
イメージの中の「名前」ではなく、実際の「土地」=バルベックでの出来事が描かれる。

 

……「スワン夫人をめぐって」でジルベルトと仲違いしてから二年の月日が流れ、もはやほとんどジルベルトに無関心になっていた《私》は祖母とフランソワーズと共にバルベックへと旅に出る。
「土地の名――名前」の頃に時刻表を見ながら夢想していた一時二十二分の汽車に乗って、《私》は実際のバルベックにやって来る。バルベックに到着すると、いつものごとく、《私》は「欲望の距離感」から生じるズレによる失望を感じる。
 
 また、この冒頭では「記憶の距離感」が時間の「間歇性〔一定の間隔をおいて起こったりやんだりすること〕」という言葉によって説明される。
(『失われた時を求めて』はもともと『心情の間歇』という題名だった。「間歇的なもの」として、プルーストは時間と世界を捉えるのである)
時間の間歇性は、次の様に描かれる。

 


 しばしば私は(我々の一生は年代順になっている事はめずらしく、月日の流れには時代錯誤が随分沢山入り込んでいるので)、昨日や一昨日よりもはるかに遠い日々、私がまだジルベルトを愛していた日々に生きていることがあった。そんな時、もう彼女に会えないという気持ちが、その当時とそっくりに、私を急に苦痛におとしいれるのだった。
彼女を愛していた自我は、既に他の自我にほとんど完全に取って代わられているのに、その古い自我が再び現れてくるのだ。

 

 

 バルベックでは、まるで幼児の世話をする様に祖母が《私》の世話を焼いてくれる。ホテルで隣の部屋にいる祖母は、《私》が壁を三度ノックするといつも彼の部屋にやって来てくれるのだった。
 《私》たちが宿泊するバルベック=グランドホテルにはエメと呼ばれる給仕長がおり(後に重要な役割を演じる)、また、田舎名士たちが貴族社会を気取った小さなグループを作ったりしている。知り合いのいないその土地で《私》たちは孤立して過ごすが、ある日、偶然にも祖母が女学校時代の友人ヴィルパリジ侯爵夫人と再会し、《私》たちは彼女とバルベックでの日々を共に過ごす事になる。その老婦人の存在は《私》にとって取り立てて魅力的なものではないが、彼女の親戚 のロベール・ド・サン=ルー侯爵がバルベックに来訪し、《私》はその美貌の貴公子と深い友情で結ばれるようになる。また、彼の叔父シャルリュス男爵の登場によって、ヴィルパリジ侯爵夫人が実はあのゲルマント一族の人間であることが判明する。当然《私》にとってヴィルパリジ侯爵夫人の価値が大きく転回する。

 

 ここから、《私》の「ゲルマントの方」との付き合いが徐々に始まる。

 


 


 サン=ルーが叔父シャルリュス男爵の到着を楽しみに待っている頃、《私》はホテルのカジノの前で誰かに見つめられている視線を感じる。振り返るとそこには「非常に背の高い、かなりふとった、真っ黒な口ひげの、四十がらみの男」がおり、ズボンを細いステッキで神経質にたたきながら「注意をこめて見開かれた目」で《私》を見ていた。悟られた事に気が付いた男は「お前は人の注意をひくほど大した人間ではない、そんなお前をおれは見ていたのではない」というようなそぶりで《私》から目をそらす。
 それから一時間後、《私》と祖母はさっきの男がサン=ルーとヴィルパリジ夫人と一緒にいるところに出会う。その男はヴィルパリジ夫人からシャルリュス男爵として紹介されるが、彼は《私》のことなど初めて見たというような無関心な様子を見せ、《私》には一言も言葉をかけずに離れてゆく。《私》はサン=ルーからシャルリュス男爵が高貴の生まれに固執する誇り高い人物である事、大公の称号も名乗れるのにあえてシャルリュス男爵(フランス一古い家名だという)を名乗っている事、そして彼があのスワンの大親友である事などを聞かされる。しばらくして、サン=ルーとヴィルパリジ侯爵夫人が祖母に話しかけているとき、シャルリュス男爵はふと《私》に近寄り「今晩ヴィルパリジの部屋でお茶をするので、お祖母様といらして下さい」と言う。
 それがシャルリュス男爵の失礼な態度の埋め合わせなのだと了解した《私》は、その夜祖母とともにヴィルパリジ夫人の部屋に行くが、シャルリュス男爵は《私》たちを招待されていない、偶然に訪れた客の様に迎える。疑問に思った《私》はシャルリュス男爵に質問するが、彼はまたしても《私》に一言も口をきかないのであった。
 お茶が終わって《私》が部屋に帰ると、突然シャルリュス男爵がやってきて《私》が好きだと話した作家ベルゴットの本を貸してくれる。彼はそれまでとは打って変わった優しい調子で青春の素晴らしさについてしばし語るが、ふたたび冷ややかな声で「おやすみ」と言い放って部屋を出ていく。
 翌日、シャルリュス男爵は《私》を口汚く罵ったり、急に本を返せと言ったり、返した本を再びプレゼントしてきたりと、奇妙な行動をみせてからバルベックを去ってゆくのだった。(彼の奇行の原因は後に明らかになる)


 


 それから、《私》とサン=ルーはユダヤ人の友人ブロック家の夕食に招かれたり、レストランで画家のエスチールと知りあいになったりする日々を過ごす。また、ある日サン=ルーに写真を撮ってもらうために年甲斐もなくめかしこむ祖母に《私》は心無い言葉を投げ付け、祖母の心を傷つける。それからしばらくの間、《私》は祖母に避けらているような気がし、部屋の壁をノックしても祖母が来なくなるので悲しい思いをする。

 そんなある日、《私》は堤防の上を我がもの顔で闊歩する、健康的で、若く、美しく、傲慢な感じのする五、六人の少女たちの一群を目にする。《私》は彼女らに非常な興味を覚える。

 


 それらの少女たちの間の区別はやがてはっきりしてくるのであろうが、とにかくこの時はまったく限界なしであって、彼女らの群を通して、一種の調和をもった波動のようなもの、かたまって流れてゆく美の連続的移動が、こちらに伝わってくるだけなのであった。


 

 少女たちの一群をしばらく観察しているうちに、《私》は混じりあっていた美の印象を個々の少女の面影の上に分配したり整理したりできるようになる。また、《私》は彼女らを観察している時に誰かが「あれはシモネの娘さんのお友達よ」というのを耳にし、シモネという名前を少女たちと結び付けて心に刻み込む。漠然とした美の印象は徐々に個別的なものとなり、一つの「名前」が《私》に新しい欲望を結晶させる。
 あくる日、《私》はバルベックの常連客にシモネの名について、例の少女たちについての情報を訊ねてまわるが、答えは得られない。その日から《私》は彼女らが通るのを心待ちにして堤防の上で時間を過ごすようになる。画家エスチールのアトリエ訪問を延期してまで少女たちを待つ《私》を祖母は嘆かわしく思う。
 少女たちと再び出会う機会のないまま、《私》は後ろ髪ひかれながらバルベック郊外のエスチールのアトリエを訪れる。しかし、そのアトリエの窓の外を例の少女の一人が通りかかりエスチールに挨拶をする。彼女たちはエスチールの知り合いであった事が判明し、その少女の名がアルベルチーヌ・シモネであること、他の少女たちはアンドレ、ジゼル、ロズモンドなどという名前である事が分かり、《私》は思いもよらぬ進展に歓喜する。
また、エスチールのアトリエで《私》は『ミス・サクリパン』と書かれたスワン夫人の肖像画を見つけ、エスチールが実はヴェルデュランのサロンに出入りしていたムッシュー・ピッシュというあだ名の画家であった事も判明する。

 

 エスチールにアルベルチーヌを紹介してもらい、《私》は彼女をはじめとする少女の一群との付き合いを始める。
アルベルチーヌに対する、《私》の「第二の恋の物語」が始まるが、アルベルチーヌはジルベルトにもまして気まぐれな少女で(孤児の彼女は中産階級のボンタン家で育てられている )、ときには奔放な「バッカスの巫女」であり、ときには「育ちのいい娘」であるという性格をみせる。
 彼女は「あなたが好きよ」と書いた紙を《私》に手渡したり、また、遊戯にかこつけて手を握り続ける《私》に激怒したり、《私》にはなかなか本心がわからない。

 ある日、《私》が滞在しているホテルにアルベルチーヌが一人で泊まる用事ができ、彼女は《私》に「私がベットで夕食をとる時そばに来てもいいことよ、その後であなたのお好きな事をして遊びましょう」と告げる。それをアルベルチーヌの誘惑だと受け取った《私》は、その夜彼女の部屋を訪れベットの上の彼女に飛びかろうとする。
しかし、飛びかかろうとする《私》の姿を見てとったアルベルチーヌは力いっぱい呼び鈴を鳴らしたのだった。

 



 しばらくしてアルベルチーヌは《私》の行為を赦してくれるが、以後なんの進展もないまま彼女は突然パリに帰ってしまう。そのうちシーズンが終わり、客たちが次々バルベックを去るなか《私》たちはしばらくのあいだ閑散としたバルベックに残る。

 

 やがてパリに帰った《私》がバルベックに関して思いだす記憶は、カーテンを閉めきったホテルの部屋で病に伏せ、外から聞こえてくる音からアルベルチーヌや女友達の姿を思い描く自分の姿なのであった。
 

 

 

 

<第三篇につづく>

 

 

ロベール(サン=ルー )と私の二人が今目の前にしているのは、確かに、一つの痩せた細面の顔であった。

 

 

しかし、私たちは決して相通じえないであろう二つの道を通ってその顔に到達したのであって、それゆえ、私たちはその顔を同じ顔として見ることは決してないのだろう。

 

第三篇「ゲルマントの方」

 


 

 
「ゲルマントの方」は「スワン家の方へ」に対置される。
それは、コンブレーでの逆方向に伸びた二つの散歩道としての対置であり、ゲルマント家(=貴族階級)とスワン家(=ユダヤ人・ブルジョワ階級)という階級としての対置であり、また、概念的あるいは時間的な「家」と、物理的あるいは空間的な「家」――としての対置である。
 字の如く、Guermantes=ゲルマント家とChez Swann=スワン家では、前者は一族・一門といった意味での「家」であり、後者は屋敷・邸宅といった意味での「家」である。そして、スワン家はさまよえるユダヤ人の家系、根無し草的な存在の「家」であり、ゲルマント家は領地や城館とともに「貴族の血」という物語を代々受け継いできた、土地と密着した「家」である。つまり、ゲルマント家は個人の一生涯に限定されぬ 「歴史的な時間」の象徴であり、スワン家は個人の一生涯に限定される「一人の個人が生きる空間(あるいは時間)」として、この小説において象徴される。 

 

 

「ゲルマントの方」は前半部と後半部の二つにわけられ、後半部は一章と二章にわけられている。この篇の舞台はパリであり、バルベックで再会した祖母の友人ヴィルパリジ侯爵夫人の紹介で、《私》の一家はパリのゲルマント公爵邸の一角にあるアパルトマンに引っ越して来ている。

 

 

 

 前半部はフランソワーズをはじめゲルマント館で働く使用人たちの活き活きとした描写から始まる。使用人たちの雇い主への愛憎入り混じった感情や、彼ら独特のもののとらえ方について愛情ある可笑しみをこめて描かれる。「ゲルマント」という貴族の名を冠した題の篇が使用人たちの話から始まるのも面白い。


 思わぬ事から憧れのゲルマント公爵家の隣人に事なった《私》は、またもやゲルマントの名についての軽い幻滅を覚えるが、しばしば見かけるゲルマント公爵夫人――「名」ではなく「実物」としての彼女――に対して憧れの感情を抱きはじめる。(《私》の欲望は徐々に「名」から「実物」に移行しはじめる。つまり、それまで「名」という観念上のものに価値を見出だしていた《私》が、その価値を外部に向かって投げ掛け始めるのである。この「名」から「実物」への欲望の移行というのは、「まず現存在(認識主体)があって、そこから外部への欲望が投げかけられる」という現象学哲学的思考と似ている)

 

 また、《私》は再びラ・ベルマの『フェードル』をオペラ座に聴きに行くが、もはや彼女の名への崇拝を失っていた《私》は、「名」としての彼女ではなく『フェードル』という劇的観念を現出させる「実物」としての彼女を見出だす。オペラ座でのパルム大公夫人、ゲルマント大公夫人、ゲルマント公爵夫人ら貴族たちの精緻な描写によって、本篇の一つのテーマである「ゲルマントの方=貴族社会」が描かれはじめる。
 オペラ座で姿を見てからますますゲルマント公爵夫人への思いが膨らんだ《私》は、毎日の様にゲルマント公爵夫人が出掛ける時間にわざと外出し、偶然出会った様なふりをして彼女に挨拶をするが、それが迷惑の他何でもない公爵夫人はそっけない態度で挨拶に応えるのだった。

 ゲルマント一族の一員であるサン=ルーに何とか公爵夫人との仲を取り成してもらおうと考えた《私》は彼が兵役についているドンシエールの駐屯地に赴く。公爵夫人への取り成しをさりげなくサン=ルーに頼む事に成功した《私》は、調子に乗って彼の机の上に置かれていた公爵夫人の写真をくれるようにも頼むがこちらは断られる。
ドンシエールで《私》はサン=ルーの上官や仲間とも親しくなり、ドレフュス事件について語り合ったりする。この頃、社会の大勢は反ドレフュス派(ユダヤ人兵士ドレフュスがフランスに対してスパイ行為を行ったとして逮捕された事件。ドレフュスが有罪と信じるのが「反ドレフュス派」で、その逆が「ドレフュス派」)であり、ドンシエールの人々もほとんどが反ドレフュス派である。
《私》はサン=ルーの恋人の女優ラシェルに紹介されるが、彼女は《私》が以前娼館で見たことのあるユダヤ人の娼婦ラシェルだった。サン=ルーはラシェルに惚れているが、彼女の奔放な性質に心悩ましている。(彼の母マルサント伯爵夫人は彼が素性の知れぬ 女優と付き合っていることに心悩ましている)
 彼女が元娼婦である事を知っている《私》は、ほんの二十フランで誰にでも手に入れられるような女に百万フラン以上もの金を使っているサン=ルーを気の毒に思い、次のような考察をする。

 


 ロベール(サン=ルー )と私の二人が今目の前にしているのは、確かに、一つの痩せた細面の顔であった。しかし、私たちは決して相通じえないであろう二つの道を通ってその顔に到達したのであって、それゆえ、私たちはその顔を同じ顔として見ることは決してないのであろう。

 

 

 もし彼が彼女の愛情は誰にでも二十フラン金貨一枚で開かれているのだと知ったら、彼は大変苦しむ事だろう。しかし、それでも彼は彼女の愛情を安全に保存するためには例の百万フランを投げ出した事だろう。なぜなら今更何を知ったとしても、彼が通ってきた道から彼を引き離す事はできないのであるから――それは人間にとって重要な現象であり、人間の意志に関わらず、大きな生来の法則として人間を襲うのである――つまり、その道を通 った、彼が既に作り上げた幻想としてしか、彼にはその女の顔が見えないのであるから。

 


 後に《私》は自分とアルベルチーヌとの関係において、自分の恋愛に対しても同じ様な考察をする事となる。

 

 

 ドンシエールから帰った《私》は、父の依頼でヴィルパリジ侯爵夫人のサロンに出掛ける。学士院に立候補しようとしていた父にとってヴィルパリジ侯爵夫人の二十年来の愛人ノルポワ氏の支持が必要であり、彼が支持してくれるかどうかを息子に探らせようとしたのである。
 ノルポワ氏との関係や、彼女の独特なものの考え方や吝嗇によって、栄光あるゲルマントの一族であるにも関わらずヴィルパリジ侯爵夫人のサロンは貴族的でなく、色々な階級人が出入りする寄せ集め的なサロンになっている。そこを訪れる貴族はゲルマント公爵夫妻やシャルリュス男爵、マルサント伯爵夫人とその息子サン=ルー侯爵といった彼女の親戚 のゲルマントの人々であるか、もしくはヴィルパリジ侯爵夫人と同じくうらぶれた老貴婦人たちであり、その他はコンブレーのプチ・ブルのルグランタン氏や、今や劇作家となった《私》の友人のユダヤ人青年ブロック、あるいは元高級娼婦のスワン夫人といった人々である。彼らが次々にヴィルパリジ侯爵夫人のサロンに登場する様子や、彼らの会話、態度が《私》の観察として延々と描かれる。ここは「ゲルマントの方」前半部の大きな山場である。
《私》はサン=ルーの紹介によって、ゲルマント公爵夫人の隣席に座る事が叶うが、結局彼女とは言葉を交わさず仕舞いとなる。そしてサロンの話題はドレフュス事件のことになり、ほとんどが反ドレフュス派の中、ユダヤ人のブロックは冷たくあしらわれる。また、スワン夫人が登場すると、彼女を心から軽蔑しているゲルマント公爵夫人はこれ見よがしに席を立ったりする。(ここでの描写は観察力にあふれており、人々の階級意識や虚飾や偏見が実に巧みに、可笑しみをもって描かれている。ここは、プルーストの文学的描写力を味わう上で是非読んで欲しい部分である)
 そのサロンからの帰り《私》はシャルリュス男爵と同道する。彼は馴れ馴れしい態度で「女など適当に愛人にすればいい、しかし男の友人は厳選しなければならない」と語り、また、妻に先立たれて子供もいない彼が自分の有形・無形の遺産を《私》に与えようかと思っているので屋敷を訪ねるようにと語る。
 


 

 それからしばらく後、病気だった祖母は医師に散歩を進められる。
祖母と《私》はシャンゼリゼを散歩する。しかし、祖母はシャンゼリゼの公衆便所で発作を起こして倒れてしまう。

 

 

 

 

第一章

 

「ゲルマントの方」の後半部第一章は非常に短い。
 ここで扱われることはほとんど「祖母の衰弱と死」だけである。
 ここでは死についてのハイデガーの考察に近い一文があるので、それを引いておく。

 

 

 我々は死について、それがやってくる時間は不確実であると言う。しかし、我々がそう言う時、われわれは「死の時間」を漠然とした、遠い空間にあるもののように想定しているので、その時間がすでに始まっている「今日という日」と関係があるかもしれないとは考えもしないし、また、今日の午後にも死がやってくるかもしれない――あるいは一度とりついたら絶対に我々から離れはしない死の第一歩が、今日の午後すでに始まっている――とは思いもしないのである。

 

 

 祖母は治療の甲斐も空しくどんどん衰弱してゆき、そして、死ぬ。
《私》は愛する祖母を、母にも匹敵する最大の理解者を失ったのであった。

 

 

第二章

 

 祖母が死んでしばらくたったある秋の日曜日、《私》の両親はコンブレーに出かけていてパリの家には《私》とフランソワーズしかいない。《私》はサン=ルーから紹介されたステルマリア夫人にデートを申し込む手紙を出しており、その返事が夜の八時くらいに来るはずなので、それまでの時間、もしかすると訪れるかもしれない彼女との快楽の時間を想像しながらベットで時間を潰す。
 その時突然アルベルチーヌが《私》の部屋にやって来る。彼女の言葉遣いはバルベックの時の様なあけすけなものではなくなり、いっぱしのレディの様なそれになっている(しかしそれには至る所ぼろがあり、彼女が根本的には変わっていないことを露呈する)。そこでの《私》とアルベルチーヌの位置はバルベックで《私》が彼女に接吻しようとした夜と逆転しており、ベットには《私》がおり、ベット際には彼女がいる。《私》はもはやアルベルチーヌの事を愛していなかったし、彼女との友情が大事なものとすら思っていなかったので、この状況下で彼女は接吻を拒むかどうかを試そうと思う。
「ぼくはくすぐられても全然平気なんですよ」という誘いに、彼女は「じゃあ試してみてもいいかしら」とベットの上に乗ってくる。
 彼女は何の抵抗もなく《私》の接吻を受け入れたのだった。

 

 

 アルベルチーヌが帰ってから、《私》はヴィルパリジ侯爵夫人のサロンに出かける。そこでちょっとした出し物を見る予定だったのだが、遅れて着いたので既にそれは終わってしまっていた。そこで《私》はゲルマント公爵夫人に会うが、母の忠告により《私》は彼女を追い掛け回すような事をすでにやめており、それがよったのか彼女は以前と違って愛想良く《私》に接してくれる。そしてそのうえ公爵夫人は《私》をしきりに自宅での内輪な晩餐会に招待し、結局、その週の金曜日に《私》はゲルマント邸を訪ねる事が決まる。
 家に帰るとステルマリア夫人への返事の手紙が届いており、彼女はそこに水曜日のデートを約束してくれていた。《私》は近いうちに起こりうる快楽に心を膨らませながら約束の日を待つが、当日になって彼女から断りの手紙が届き、《私》は「生きる目的も失う様な」失意を覚える。

 そのうち金曜日になり《私》はゲルマント邸を訪ねる。ゲルマント家所有のエスチールの絵画を見せてもらってから《私》は晩餐の席に着く。ゲルマントの一族の人々や、彼らと親交のある身分高い貴族たちがその晩餐会には来ており、スワン夫人やヴィルパリジ侯爵夫人のサロンとは違った、「外面的な振る舞いや儀礼が真に内面化された」真に貴族的な貴族たちの有り様を《私》は目の当たりにする。そこではゲルマント家の人々の才知やエスプリが披露され、貴族の家系や姻戚関係を熟知していなければまったく理解できないような貴族独特の話題が延々繰り広げられる。《私》は少しつまらない思いをするが、逆に自分のような部外者が加わってしまった事でこの晩餐の興をそいでいるのではないかと心配する。
 その晩餐の帰り《私》は以前訪問を命じられたシャルリュス男爵の屋敷を訪れるが、彼は横柄な態度で《私》を迎え入れ、さまざまな理屈を並べて《私》に悪態をつきつづける。しかし《私》が怒って帰ろうとすると、急に弱気な様子で優しく引き留めたり、「《私》とは今後一切交流しないだろう」と宣言しつつも彼を家まで送ってくれたりし、《私》にはますます彼の性格がわからなくなってくる。

 

 

 それから二カ月後のある日、《私》のもとに「ゲルマント大公夫人、元バイエルンの公女は、・・日に在宅しております」という手紙が届く。社交界の儀礼がまだよくわからない《私》はそれが夜会への招待状なのかどうか判別しかね、自分のアパルトマンの家主であるゲルマント公爵夫妻に教えを請おうと考える。しかし公爵夫妻はカンヌに出かけていて留守だった。夜会の当日、《私》はゲルマント公爵夫妻がパリに帰ってくることを知り、彼らをつかまえようと家の階段のところで夫妻の帰りを見張るのだが、そこで《私》はある重大な発見をすることになる。
(この発見のシーンから第四篇「ソドムとゴモラ」は始まる。つまり「ゲルマントの方」の終わりの部分と「ソドムとゴモラ」の冒頭部分は時間が交錯しているのである)
 
 ゲルマント公爵夫妻が帰ってきているのを知り《私》はゲルマント邸を訪ねるが、公爵夫人は外出の準備中で、公爵も早く外出したくてたまらない様子であった。彼らはその夜サン=トゥーヴェルト侯爵夫人の晩餐会に出掛け、次にゲルマント大公夫人の夜会に顔を出し、その後また別の仮面舞踏会にでかける予定だったのである。しかし、ゲルマント公爵の従兄に当たるオスモン侯爵が危篤だという知らせが親戚によって届けられており、彼が死んでしまっては喪に服さなければならず夜会に出掛けられなくなってしまうので、彼がまだ生きているうちに一刻も早く公爵は外出したかったのである。(プルーストは従兄の死よりも夜会を気にする公爵を、薄情者とか人非人として皮肉をこめて描くのではなくて、遊びや社交が領分である貴族という人種のごく自然な心理として、人間の可笑しみとして描くのである)
 ゲルマント邸にはスワンも訪れており、《私》とスワンは一緒に公爵夫人を待つが、夫人が彼らと話し込んでしまうのを恐れた公爵は《私》とスワンを体よく追い払おうとする。


スワンは自分の体が病に冒されており、もう長くは生きていられない事を告白する。


馬車に乗り込んだ公爵は「医者みたいなやつらの言葉を信じちゃいけません、あなたの体はポン=ヌフのように頑丈で、私たちみんなの最期を見届けてくれるんですよ!」と叫びながら去ってゆくのだった。

 

 

 

<第四篇につづく>

 

 

ロベール(サン=ルー )と私の二人が今目の前にしているのは、確かに、一つの痩せた細面の顔であった。

 

 

しかし、私たちは決して相通じえないであろう二つの道を通ってその顔に到達したのであって、それゆえ、私たちはその顔を同じ顔として見ることは決してないのだろう。

 

第三篇「ゲルマントの方」

 


 

 
「ゲルマントの方」は「スワン家の方へ」に対置される。
それは、コンブレーでの逆方向に伸びた二つの散歩道としての対置であり、ゲルマント家(=貴族階級)とスワン家(=ユダヤ人・ブルジョワ階級)という階級としての対置であり、また、概念的あるいは時間的な「家」と、物理的あるいは空間的な「家」――としての対置である。
 字の如く、Guermantes=ゲルマント家とChez Swann=スワン家では、前者は一族・一門といった意味での「家」であり、後者は屋敷・邸宅といった意味での「家」である。そして、スワン家はさまよえるユダヤ人の家系、根無し草的な存在の「家」であり、ゲルマント家は領地や城館とともに「貴族の血」という物語を代々受け継いできた、土地と密着した「家」である。つまり、ゲルマント家は個人の一生涯に限定されぬ 「歴史的な時間」の象徴であり、スワン家は個人の一生涯に限定される「一人の個人が生きる空間(あるいは時間)」として、この小説において象徴される。 

 

 

「ゲルマントの方」は前半部と後半部の二つにわけられ、後半部は一章と二章にわけられている。この篇の舞台はパリであり、バルベックで再会した祖母の友人ヴィルパリジ侯爵夫人の紹介で、《私》の一家はパリのゲルマント公爵邸の一角にあるアパルトマンに引っ越して来ている。

 

 

 

 前半部はフランソワーズをはじめゲルマント館で働く使用人たちの活き活きとした描写から始まる。使用人たちの雇い主への愛憎入り混じった感情や、彼ら独特のもののとらえ方について愛情ある可笑しみをこめて描かれる。「ゲルマント」という貴族の名を冠した題の篇が使用人たちの話から始まるのも面白い。


 思わぬ事から憧れのゲルマント公爵家の隣人に事なった《私》は、またもやゲルマントの名についての軽い幻滅を覚えるが、しばしば見かけるゲルマント公爵夫人――「名」ではなく「実物」としての彼女――に対して憧れの感情を抱きはじめる。(《私》の欲望は徐々に「名」から「実物」に移行しはじめる。つまり、それまで「名」という観念上のものに価値を見出だしていた《私》が、その価値を外部に向かって投げ掛け始めるのである。この「名」から「実物」への欲望の移行というのは、「まず現存在(認識主体)があって、そこから外部への欲望が投げかけられる」という現象学哲学的思考と似ている)

 

 また、《私》は再びラ・ベルマの『フェードル』をオペラ座に聴きに行くが、もはや彼女の名への崇拝を失っていた《私》は、「名」としての彼女ではなく『フェードル』という劇的観念を現出させる「実物」としての彼女を見出だす。オペラ座でのパルム大公夫人、ゲルマント大公夫人、ゲルマント公爵夫人ら貴族たちの精緻な描写によって、本篇の一つのテーマである「ゲルマントの方=貴族社会」が描かれはじめる。
 オペラ座で姿を見てからますますゲルマント公爵夫人への思いが膨らんだ《私》は、毎日の様にゲルマント公爵夫人が出掛ける時間にわざと外出し、偶然出会った様なふりをして彼女に挨拶をするが、それが迷惑の他何でもない公爵夫人はそっけない態度で挨拶に応えるのだった。

 ゲルマント一族の一員であるサン=ルーに何とか公爵夫人との仲を取り成してもらおうと考えた《私》は彼が兵役についているドンシエールの駐屯地に赴く。公爵夫人への取り成しをさりげなくサン=ルーに頼む事に成功した《私》は、調子に乗って彼の机の上に置かれていた公爵夫人の写真をくれるようにも頼むがこちらは断られる。
ドンシエールで《私》はサン=ルーの上官や仲間とも親しくなり、ドレフュス事件について語り合ったりする。この頃、社会の大勢は反ドレフュス派(ユダヤ人兵士ドレフュスがフランスに対してスパイ行為を行ったとして逮捕された事件。ドレフュスが有罪と信じるのが「反ドレフュス派」で、その逆が「ドレフュス派」)であり、ドンシエールの人々もほとんどが反ドレフュス派である。
《私》はサン=ルーの恋人の女優ラシェルに紹介されるが、彼女は《私》が以前娼館で見たことのあるユダヤ人の娼婦ラシェルだった。サン=ルーはラシェルに惚れているが、彼女の奔放な性質に心悩ましている。(彼の母マルサント伯爵夫人は彼が素性の知れぬ 女優と付き合っていることに心悩ましている)
 彼女が元娼婦である事を知っている《私》は、ほんの二十フランで誰にでも手に入れられるような女に百万フラン以上もの金を使っているサン=ルーを気の毒に思い、次のような考察をする。

 


 ロベール(サン=ルー )と私の二人が今目の前にしているのは、確かに、一つの痩せた細面の顔であった。しかし、私たちは決して相通じえないであろう二つの道を通ってその顔に到達したのであって、それゆえ、私たちはその顔を同じ顔として見ることは決してないのであろう。

 

 

 もし彼が彼女の愛情は誰にでも二十フラン金貨一枚で開かれているのだと知ったら、彼は大変苦しむ事だろう。しかし、それでも彼は彼女の愛情を安全に保存するためには例の百万フランを投げ出した事だろう。なぜなら今更何を知ったとしても、彼が通ってきた道から彼を引き離す事はできないのであるから――それは人間にとって重要な現象であり、人間の意志に関わらず、大きな生来の法則として人間を襲うのである――つまり、その道を通 った、彼が既に作り上げた幻想としてしか、彼にはその女の顔が見えないのであるから。

 


 後に《私》は自分とアルベルチーヌとの関係において、自分の恋愛に対しても同じ様な考察をする事となる。

 

 

 ドンシエールから帰った《私》は、父の依頼でヴィルパリジ侯爵夫人のサロンに出掛ける。学士院に立候補しようとしていた父にとってヴィルパリジ侯爵夫人の二十年来の愛人ノルポワ氏の支持が必要であり、彼が支持してくれるかどうかを息子に探らせようとしたのである。
 ノルポワ氏との関係や、彼女の独特なものの考え方や吝嗇によって、栄光あるゲルマントの一族であるにも関わらずヴィルパリジ侯爵夫人のサロンは貴族的でなく、色々な階級人が出入りする寄せ集め的なサロンになっている。そこを訪れる貴族はゲルマント公爵夫妻やシャルリュス男爵、マルサント伯爵夫人とその息子サン=ルー侯爵といった彼女の親戚 のゲルマントの人々であるか、もしくはヴィルパリジ侯爵夫人と同じくうらぶれた老貴婦人たちであり、その他はコンブレーのプチ・ブルのルグランタン氏や、今や劇作家となった《私》の友人のユダヤ人青年ブロック、あるいは元高級娼婦のスワン夫人といった人々である。彼らが次々にヴィルパリジ侯爵夫人のサロンに登場する様子や、彼らの会話、態度が《私》の観察として延々と描かれる。ここは「ゲルマントの方」前半部の大きな山場である。
《私》はサン=ルーの紹介によって、ゲルマント公爵夫人の隣席に座る事が叶うが、結局彼女とは言葉を交わさず仕舞いとなる。そしてサロンの話題はドレフュス事件のことになり、ほとんどが反ドレフュス派の中、ユダヤ人のブロックは冷たくあしらわれる。また、スワン夫人が登場すると、彼女を心から軽蔑しているゲルマント公爵夫人はこれ見よがしに席を立ったりする。(ここでの描写は観察力にあふれており、人々の階級意識や虚飾や偏見が実に巧みに、可笑しみをもって描かれている。ここは、プルーストの文学的描写力を味わう上で是非読んで欲しい部分である)
 そのサロンからの帰り《私》はシャルリュス男爵と同道する。彼は馴れ馴れしい態度で「女など適当に愛人にすればいい、しかし男の友人は厳選しなければならない」と語り、また、妻に先立たれて子供もいない彼が自分の有形・無形の遺産を《私》に与えようかと思っているので屋敷を訪ねるようにと語る。
 


 

 それからしばらく後、病気だった祖母は医師に散歩を進められる。
祖母と《私》はシャンゼリゼを散歩する。しかし、祖母はシャンゼリゼの公衆便所で発作を起こして倒れてしまう。

 

 

 

 

第一章

 

「ゲルマントの方」の後半部第一章は非常に短い。
 ここで扱われることはほとんど「祖母の衰弱と死」だけである。
 ここでは死についてのハイデガーの考察に近い一文があるので、それを引いておく。

 

 

 我々は死について、それがやってくる時間は不確実であると言う。しかし、我々がそう言う時、われわれは「死の時間」を漠然とした、遠い空間にあるもののように想定しているので、その時間がすでに始まっている「今日という日」と関係があるかもしれないとは考えもしないし、また、今日の午後にも死がやってくるかもしれない――あるいは一度とりついたら絶対に我々から離れはしない死の第一歩が、今日の午後すでに始まっている――とは思いもしないのである。

 

 

 祖母は治療の甲斐も空しくどんどん衰弱してゆき、そして、死ぬ。
《私》は愛する祖母を、母にも匹敵する最大の理解者を失ったのであった。

 

 

第二章

 

 祖母が死んでしばらくたったある秋の日曜日、《私》の両親はコンブレーに出かけていてパリの家には《私》とフランソワーズしかいない。《私》はサン=ルーから紹介されたステルマリア夫人にデートを申し込む手紙を出しており、その返事が夜の八時くらいに来るはずなので、それまでの時間、もしかすると訪れるかもしれない彼女との快楽の時間を想像しながらベットで時間を潰す。
 その時突然アルベルチーヌが《私》の部屋にやって来る。彼女の言葉遣いはバルベックの時の様なあけすけなものではなくなり、いっぱしのレディの様なそれになっている(しかしそれには至る所ぼろがあり、彼女が根本的には変わっていないことを露呈する)。そこでの《私》とアルベルチーヌの位置はバルベックで《私》が彼女に接吻しようとした夜と逆転しており、ベットには《私》がおり、ベット際には彼女がいる。《私》はもはやアルベルチーヌの事を愛していなかったし、彼女との友情が大事なものとすら思っていなかったので、この状況下で彼女は接吻を拒むかどうかを試そうと思う。
「ぼくはくすぐられても全然平気なんですよ」という誘いに、彼女は「じゃあ試してみてもいいかしら」とベットの上に乗ってくる。
 彼女は何の抵抗もなく《私》の接吻を受け入れたのだった。

 

 

 アルベルチーヌが帰ってから、《私》はヴィルパリジ侯爵夫人のサロンに出かける。そこでちょっとした出し物を見る予定だったのだが、遅れて着いたので既にそれは終わってしまっていた。そこで《私》はゲルマント公爵夫人に会うが、母の忠告により《私》は彼女を追い掛け回すような事をすでにやめており、それがよったのか彼女は以前と違って愛想良く《私》に接してくれる。そしてそのうえ公爵夫人は《私》をしきりに自宅での内輪な晩餐会に招待し、結局、その週の金曜日に《私》はゲルマント邸を訪ねる事が決まる。
 家に帰るとステルマリア夫人への返事の手紙が届いており、彼女はそこに水曜日のデートを約束してくれていた。《私》は近いうちに起こりうる快楽に心を膨らませながら約束の日を待つが、当日になって彼女から断りの手紙が届き、《私》は「生きる目的も失う様な」失意を覚える。

 そのうち金曜日になり《私》はゲルマント邸を訪ねる。ゲルマント家所有のエスチールの絵画を見せてもらってから《私》は晩餐の席に着く。ゲルマントの一族の人々や、彼らと親交のある身分高い貴族たちがその晩餐会には来ており、スワン夫人やヴィルパリジ侯爵夫人のサロンとは違った、「外面的な振る舞いや儀礼が真に内面化された」真に貴族的な貴族たちの有り様を《私》は目の当たりにする。そこではゲルマント家の人々の才知やエスプリが披露され、貴族の家系や姻戚関係を熟知していなければまったく理解できないような貴族独特の話題が延々繰り広げられる。《私》は少しつまらない思いをするが、逆に自分のような部外者が加わってしまった事でこの晩餐の興をそいでいるのではないかと心配する。
 その晩餐の帰り《私》は以前訪問を命じられたシャルリュス男爵の屋敷を訪れるが、彼は横柄な態度で《私》を迎え入れ、さまざまな理屈を並べて《私》に悪態をつきつづける。しかし《私》が怒って帰ろうとすると、急に弱気な様子で優しく引き留めたり、「《私》とは今後一切交流しないだろう」と宣言しつつも彼を家まで送ってくれたりし、《私》にはますます彼の性格がわからなくなってくる。

 

 

 それから二カ月後のある日、《私》のもとに「ゲルマント大公夫人、元バイエルンの公女は、・・日に在宅しております」という手紙が届く。社交界の儀礼がまだよくわからない《私》はそれが夜会への招待状なのかどうか判別しかね、自分のアパルトマンの家主であるゲルマント公爵夫妻に教えを請おうと考える。しかし公爵夫妻はカンヌに出かけていて留守だった。夜会の当日、《私》はゲルマント公爵夫妻がパリに帰ってくることを知り、彼らをつかまえようと家の階段のところで夫妻の帰りを見張るのだが、そこで《私》はある重大な発見をすることになる。
(この発見のシーンから第四篇「ソドムとゴモラ」は始まる。つまり「ゲルマントの方」の終わりの部分と「ソドムとゴモラ」の冒頭部分は時間が交錯しているのである)
 
 ゲルマント公爵夫妻が帰ってきているのを知り《私》はゲルマント邸を訪ねるが、公爵夫人は外出の準備中で、公爵も早く外出したくてたまらない様子であった。彼らはその夜サン=トゥーヴェルト侯爵夫人の晩餐会に出掛け、次にゲルマント大公夫人の夜会に顔を出し、その後また別の仮面舞踏会にでかける予定だったのである。しかし、ゲルマント公爵の従兄に当たるオスモン侯爵が危篤だという知らせが親戚によって届けられており、彼が死んでしまっては喪に服さなければならず夜会に出掛けられなくなってしまうので、彼がまだ生きているうちに一刻も早く公爵は外出したかったのである。(プルーストは従兄の死よりも夜会を気にする公爵を、薄情者とか人非人として皮肉をこめて描くのではなくて、遊びや社交が領分である貴族という人種のごく自然な心理として、人間の可笑しみとして描くのである)
 ゲルマント邸にはスワンも訪れており、《私》とスワンは一緒に公爵夫人を待つが、夫人が彼らと話し込んでしまうのを恐れた公爵は《私》とスワンを体よく追い払おうとする。


スワンは自分の体が病に冒されており、もう長くは生きていられない事を告白する。


馬車に乗り込んだ公爵は「医者みたいなやつらの言葉を信じちゃいけません、あなたの体はポン=ヌフのように頑丈で、私たちみんなの最期を見届けてくれるんですよ!」と叫びながら去ってゆくのだった。

 

 

 

<第四篇につづく>

 

 

ロベール(サン=ルー )と私の二人が今目の前にしているのは、確かに、一つの痩せた細面の顔であった。

 

 

しかし、私たちは決して相通じえないであろう二つの道を通ってその顔に到達したのであって、それゆえ、私たちはその顔を同じ顔として見ることは決してないのだろう。

 

第三篇「ゲルマントの方」

 


 

 
「ゲルマントの方」は「スワン家の方へ」に対置される。
それは、コンブレーでの逆方向に伸びた二つの散歩道としての対置であり、ゲルマント家(=貴族階級)とスワン家(=ユダヤ人・ブルジョワ階級)という階級としての対置であり、また、概念的あるいは時間的な「家」と、物理的あるいは空間的な「家」――としての対置である。
 字の如く、Guermantes=ゲルマント家とChez Swann=スワン家では、前者は一族・一門といった意味での「家」であり、後者は屋敷・邸宅といった意味での「家」である。そして、スワン家はさまよえるユダヤ人の家系、根無し草的な存在の「家」であり、ゲルマント家は領地や城館とともに「貴族の血」という物語を代々受け継いできた、土地と密着した「家」である。つまり、ゲルマント家は個人の一生涯に限定されぬ 「歴史的な時間」の象徴であり、スワン家は個人の一生涯に限定される「一人の個人が生きる空間(あるいは時間)」として、この小説において象徴される。 

 

 

「ゲルマントの方」は前半部と後半部の二つにわけられ、後半部は一章と二章にわけられている。この篇の舞台はパリであり、バルベックで再会した祖母の友人ヴィルパリジ侯爵夫人の紹介で、《私》の一家はパリのゲルマント公爵邸の一角にあるアパルトマンに引っ越して来ている。

 

 

 

 前半部はフランソワーズをはじめゲルマント館で働く使用人たちの活き活きとした描写から始まる。使用人たちの雇い主への愛憎入り混じった感情や、彼ら独特のもののとらえ方について愛情ある可笑しみをこめて描かれる。「ゲルマント」という貴族の名を冠した題の篇が使用人たちの話から始まるのも面白い。


 思わぬ事から憧れのゲルマント公爵家の隣人に事なった《私》は、またもやゲルマントの名についての軽い幻滅を覚えるが、しばしば見かけるゲルマント公爵夫人――「名」ではなく「実物」としての彼女――に対して憧れの感情を抱きはじめる。(《私》の欲望は徐々に「名」から「実物」に移行しはじめる。つまり、それまで「名」という観念上のものに価値を見出だしていた《私》が、その価値を外部に向かって投げ掛け始めるのである。この「名」から「実物」への欲望の移行というのは、「まず現存在(認識主体)があって、そこから外部への欲望が投げかけられる」という現象学哲学的思考と似ている)

 

 また、《私》は再びラ・ベルマの『フェードル』をオペラ座に聴きに行くが、もはや彼女の名への崇拝を失っていた《私》は、「名」としての彼女ではなく『フェードル』という劇的観念を現出させる「実物」としての彼女を見出だす。オペラ座でのパルム大公夫人、ゲルマント大公夫人、ゲルマント公爵夫人ら貴族たちの精緻な描写によって、本篇の一つのテーマである「ゲルマントの方=貴族社会」が描かれはじめる。
 オペラ座で姿を見てからますますゲルマント公爵夫人への思いが膨らんだ《私》は、毎日の様にゲルマント公爵夫人が出掛ける時間にわざと外出し、偶然出会った様なふりをして彼女に挨拶をするが、それが迷惑の他何でもない公爵夫人はそっけない態度で挨拶に応えるのだった。

 ゲルマント一族の一員であるサン=ルーに何とか公爵夫人との仲を取り成してもらおうと考えた《私》は彼が兵役についているドンシエールの駐屯地に赴く。公爵夫人への取り成しをさりげなくサン=ルーに頼む事に成功した《私》は、調子に乗って彼の机の上に置かれていた公爵夫人の写真をくれるようにも頼むがこちらは断られる。
ドンシエールで《私》はサン=ルーの上官や仲間とも親しくなり、ドレフュス事件について語り合ったりする。この頃、社会の大勢は反ドレフュス派(ユダヤ人兵士ドレフュスがフランスに対してスパイ行為を行ったとして逮捕された事件。ドレフュスが有罪と信じるのが「反ドレフュス派」で、その逆が「ドレフュス派」)であり、ドンシエールの人々もほとんどが反ドレフュス派である。
《私》はサン=ルーの恋人の女優ラシェルに紹介されるが、彼女は《私》が以前娼館で見たことのあるユダヤ人の娼婦ラシェルだった。サン=ルーはラシェルに惚れているが、彼女の奔放な性質に心悩ましている。(彼の母マルサント伯爵夫人は彼が素性の知れぬ 女優と付き合っていることに心悩ましている)
 彼女が元娼婦である事を知っている《私》は、ほんの二十フランで誰にでも手に入れられるような女に百万フラン以上もの金を使っているサン=ルーを気の毒に思い、次のような考察をする。

 


 ロベール(サン=ルー )と私の二人が今目の前にしているのは、確かに、一つの痩せた細面の顔であった。しかし、私たちは決して相通じえないであろう二つの道を通ってその顔に到達したのであって、それゆえ、私たちはその顔を同じ顔として見ることは決してないのであろう。

 

 

 もし彼が彼女の愛情は誰にでも二十フラン金貨一枚で開かれているのだと知ったら、彼は大変苦しむ事だろう。しかし、それでも彼は彼女の愛情を安全に保存するためには例の百万フランを投げ出した事だろう。なぜなら今更何を知ったとしても、彼が通ってきた道から彼を引き離す事はできないのであるから――それは人間にとって重要な現象であり、人間の意志に関わらず、大きな生来の法則として人間を襲うのである――つまり、その道を通 った、彼が既に作り上げた幻想としてしか、彼にはその女の顔が見えないのであるから。

 


 後に《私》は自分とアルベルチーヌとの関係において、自分の恋愛に対しても同じ様な考察をする事となる。

 

 

 ドンシエールから帰った《私》は、父の依頼でヴィルパリジ侯爵夫人のサロンに出掛ける。学士院に立候補しようとしていた父にとってヴィルパリジ侯爵夫人の二十年来の愛人ノルポワ氏の支持が必要であり、彼が支持してくれるかどうかを息子に探らせようとしたのである。
 ノルポワ氏との関係や、彼女の独特なものの考え方や吝嗇によって、栄光あるゲルマントの一族であるにも関わらずヴィルパリジ侯爵夫人のサロンは貴族的でなく、色々な階級人が出入りする寄せ集め的なサロンになっている。そこを訪れる貴族はゲルマント公爵夫妻やシャルリュス男爵、マルサント伯爵夫人とその息子サン=ルー侯爵といった彼女の親戚 のゲルマントの人々であるか、もしくはヴィルパリジ侯爵夫人と同じくうらぶれた老貴婦人たちであり、その他はコンブレーのプチ・ブルのルグランタン氏や、今や劇作家となった《私》の友人のユダヤ人青年ブロック、あるいは元高級娼婦のスワン夫人といった人々である。彼らが次々にヴィルパリジ侯爵夫人のサロンに登場する様子や、彼らの会話、態度が《私》の観察として延々と描かれる。ここは「ゲルマントの方」前半部の大きな山場である。
《私》はサン=ルーの紹介によって、ゲルマント公爵夫人の隣席に座る事が叶うが、結局彼女とは言葉を交わさず仕舞いとなる。そしてサロンの話題はドレフュス事件のことになり、ほとんどが反ドレフュス派の中、ユダヤ人のブロックは冷たくあしらわれる。また、スワン夫人が登場すると、彼女を心から軽蔑しているゲルマント公爵夫人はこれ見よがしに席を立ったりする。(ここでの描写は観察力にあふれており、人々の階級意識や虚飾や偏見が実に巧みに、可笑しみをもって描かれている。ここは、プルーストの文学的描写力を味わう上で是非読んで欲しい部分である)
 そのサロンからの帰り《私》はシャルリュス男爵と同道する。彼は馴れ馴れしい態度で「女など適当に愛人にすればいい、しかし男の友人は厳選しなければならない」と語り、また、妻に先立たれて子供もいない彼が自分の有形・無形の遺産を《私》に与えようかと思っているので屋敷を訪ねるようにと語る。
 


 

 それからしばらく後、病気だった祖母は医師に散歩を進められる。
祖母と《私》はシャンゼリゼを散歩する。しかし、祖母はシャンゼリゼの公衆便所で発作を起こして倒れてしまう。

 

 

 

 

第一章

 

「ゲルマントの方」の後半部第一章は非常に短い。
 ここで扱われることはほとんど「祖母の衰弱と死」だけである。
 ここでは死についてのハイデガーの考察に近い一文があるので、それを引いておく。

 

 

 我々は死について、それがやってくる時間は不確実であると言う。しかし、我々がそう言う時、われわれは「死の時間」を漠然とした、遠い空間にあるもののように想定しているので、その時間がすでに始まっている「今日という日」と関係があるかもしれないとは考えもしないし、また、今日の午後にも死がやってくるかもしれない――あるいは一度とりついたら絶対に我々から離れはしない死の第一歩が、今日の午後すでに始まっている――とは思いもしないのである。

 

 

 祖母は治療の甲斐も空しくどんどん衰弱してゆき、そして、死ぬ。
《私》は愛する祖母を、母にも匹敵する最大の理解者を失ったのであった。

 

 

第二章

 

 祖母が死んでしばらくたったある秋の日曜日、《私》の両親はコンブレーに出かけていてパリの家には《私》とフランソワーズしかいない。《私》はサン=ルーから紹介されたステルマリア夫人にデートを申し込む手紙を出しており、その返事が夜の八時くらいに来るはずなので、それまでの時間、もしかすると訪れるかもしれない彼女との快楽の時間を想像しながらベットで時間を潰す。
 その時突然アルベルチーヌが《私》の部屋にやって来る。彼女の言葉遣いはバルベックの時の様なあけすけなものではなくなり、いっぱしのレディの様なそれになっている(しかしそれには至る所ぼろがあり、彼女が根本的には変わっていないことを露呈する)。そこでの《私》とアルベルチーヌの位置はバルベックで《私》が彼女に接吻しようとした夜と逆転しており、ベットには《私》がおり、ベット際には彼女がいる。《私》はもはやアルベルチーヌの事を愛していなかったし、彼女との友情が大事なものとすら思っていなかったので、この状況下で彼女は接吻を拒むかどうかを試そうと思う。
「ぼくはくすぐられても全然平気なんですよ」という誘いに、彼女は「じゃあ試してみてもいいかしら」とベットの上に乗ってくる。
 彼女は何の抵抗もなく《私》の接吻を受け入れたのだった。

 

 

 アルベルチーヌが帰ってから、《私》はヴィルパリジ侯爵夫人のサロンに出かける。そこでちょっとした出し物を見る予定だったのだが、遅れて着いたので既にそれは終わってしまっていた。そこで《私》はゲルマント公爵夫人に会うが、母の忠告により《私》は彼女を追い掛け回すような事をすでにやめており、それがよったのか彼女は以前と違って愛想良く《私》に接してくれる。そしてそのうえ公爵夫人は《私》をしきりに自宅での内輪な晩餐会に招待し、結局、その週の金曜日に《私》はゲルマント邸を訪ねる事が決まる。
 家に帰るとステルマリア夫人への返事の手紙が届いており、彼女はそこに水曜日のデートを約束してくれていた。《私》は近いうちに起こりうる快楽に心を膨らませながら約束の日を待つが、当日になって彼女から断りの手紙が届き、《私》は「生きる目的も失う様な」失意を覚える。

 そのうち金曜日になり《私》はゲルマント邸を訪ねる。ゲルマント家所有のエスチールの絵画を見せてもらってから《私》は晩餐の席に着く。ゲルマントの一族の人々や、彼らと親交のある身分高い貴族たちがその晩餐会には来ており、スワン夫人やヴィルパリジ侯爵夫人のサロンとは違った、「外面的な振る舞いや儀礼が真に内面化された」真に貴族的な貴族たちの有り様を《私》は目の当たりにする。そこではゲルマント家の人々の才知やエスプリが披露され、貴族の家系や姻戚関係を熟知していなければまったく理解できないような貴族独特の話題が延々繰り広げられる。《私》は少しつまらない思いをするが、逆に自分のような部外者が加わってしまった事でこの晩餐の興をそいでいるのではないかと心配する。
 その晩餐の帰り《私》は以前訪問を命じられたシャルリュス男爵の屋敷を訪れるが、彼は横柄な態度で《私》を迎え入れ、さまざまな理屈を並べて《私》に悪態をつきつづける。しかし《私》が怒って帰ろうとすると、急に弱気な様子で優しく引き留めたり、「《私》とは今後一切交流しないだろう」と宣言しつつも彼を家まで送ってくれたりし、《私》にはますます彼の性格がわからなくなってくる。

 

 

 それから二カ月後のある日、《私》のもとに「ゲルマント大公夫人、元バイエルンの公女は、・・日に在宅しております」という手紙が届く。社交界の儀礼がまだよくわからない《私》はそれが夜会への招待状なのかどうか判別しかね、自分のアパルトマンの家主であるゲルマント公爵夫妻に教えを請おうと考える。しかし公爵夫妻はカンヌに出かけていて留守だった。夜会の当日、《私》はゲルマント公爵夫妻がパリに帰ってくることを知り、彼らをつかまえようと家の階段のところで夫妻の帰りを見張るのだが、そこで《私》はある重大な発見をすることになる。
(この発見のシーンから第四篇「ソドムとゴモラ」は始まる。つまり「ゲルマントの方」の終わりの部分と「ソドムとゴモラ」の冒頭部分は時間が交錯しているのである)
 
 ゲルマント公爵夫妻が帰ってきているのを知り《私》はゲルマント邸を訪ねるが、公爵夫人は外出の準備中で、公爵も早く外出したくてたまらない様子であった。彼らはその夜サン=トゥーヴェルト侯爵夫人の晩餐会に出掛け、次にゲルマント大公夫人の夜会に顔を出し、その後また別の仮面舞踏会にでかける予定だったのである。しかし、ゲルマント公爵の従兄に当たるオスモン侯爵が危篤だという知らせが親戚によって届けられており、彼が死んでしまっては喪に服さなければならず夜会に出掛けられなくなってしまうので、彼がまだ生きているうちに一刻も早く公爵は外出したかったのである。(プルーストは従兄の死よりも夜会を気にする公爵を、薄情者とか人非人として皮肉をこめて描くのではなくて、遊びや社交が領分である貴族という人種のごく自然な心理として、人間の可笑しみとして描くのである)
 ゲルマント邸にはスワンも訪れており、《私》とスワンは一緒に公爵夫人を待つが、夫人が彼らと話し込んでしまうのを恐れた公爵は《私》とスワンを体よく追い払おうとする。


スワンは自分の体が病に冒されており、もう長くは生きていられない事を告白する。


馬車に乗り込んだ公爵は「医者みたいなやつらの言葉を信じちゃいけません、あなたの体はポン=ヌフのように頑丈で、私たちみんなの最期を見届けてくれるんですよ!」と叫びながら去ってゆくのだった。

 

 

 

<第四篇につづく>

 

 

 

男と女は それぞれ 自分の場所で死ぬだろう

 

「ソドムとゴモラ」は「失われた時を求めて」の丁度中間地点にあたる、物語の前半部と後半部を分ける大きな転回点である。この篇の頭には「天の火から逃れたソドムの住民の末裔たる女=男達の最初の出現」という辞がつけられており、この篇において《私》はソドムとゴモラの町の復興をある人々のうちに見出す最初の第一歩を踏み出す。
 ソドムとゴモラとは旧約聖書に登場する退廃と享楽の町――あまりの堕落ぶりに神の火によって燃えつくされた町――のことであり、本篇の「一」でなされるソドミスト=男性同性愛者の恋愛についての考察は、プルーストの恋愛についての直感を大いに明らかにするものである。(彼の考察は同性愛の個別的側面にとどまるものではなく、普遍的な恋愛の本質にまでも迫る)
「ソドムとゴモラ」は一と二に分けられており、一は初版では「ゲルマントの方」の巻末に収められていたごく短い部分である。ここでは「ゲルマントの方」の終盤でゲルマント公爵夫妻を待っていたときに《私》が目撃した、ある重大な発見について語られる。

 

 

 

 ゲルマント公爵夫妻を待ち伏せしていた時、《私》はシャルリュス男爵がヴィルパリジ侯爵夫人邸の表戸口から出てくる姿を目にする。《私》に眺められていることを知らず、太陽に照らされた自然な彼の姿に《私》は何故か女性の姿を連想してしまう(どうして女性を連想してしまったのかはこの直後に《私》の理解するところとなる)。
シャルリュス男爵はゲルマント邸の中庭を歩いている時にゲルマント邸の一角でチョッキ屋を営む中年男ジュピアンと出くわすが(普段シャルリュス男爵は午後遅くにやっ来るので、今までジュピアンとは会ったことがなかったのだった)、その途端、彼の目はジュピアンに釘付けになり、ジュピアンも彼をじっと見つめかえす。シャルリュス男爵は瞳の美しさを強調するように虚空を見つめ、こっけいな、艶めかしい様子を見せる。彼とは対照的にジュピアンは腰に手をあてがい、尻を突きだし、「みつ蜂に対して蘭の花がするような」色っぽい様子を見せる。
《私》に見られていることも知らず、二人はちょっとした言葉を交わしてからジュピアンの店に入ってゆく。店のなかで何が起こっているのか気になった《私》はジュピアンの店の隣の空店舗に忍び込み、二人の様子を窺う。するとジュピアンの店からは激しいうめき声と、それより一オクターヴ高い別のうめき声が聞こえてくる――つまり実は二人はソドミストで、会った瞬間に互いが同類であるということを嗅ぎ分けた二人は早くも性交渉を行っていたのである。
 そして《私》はソドミストの恋愛についての考察を展開する。彼らが孤独な存在であること、彼らが自己のうちに女性と男性の両方を見出しているということ、そして、彼らは愛に希望をかければこそ多くの困難や危険に耐えうるのに、その愛の可能性がほとんど閉ざされた恋人たちであるということ――を《私》は考え、ヴィニーの詩「サムソンの怒り」から次のような引用を添える。

 


 男と女は それぞれ 自分の場所で死ぬだろう

 

 

「ソドムとゴモラ」の後半部は四章にわかれており、一章と二章のあいだには「心情の間歇」という挿話が挿入されている。「心情の間歇」というのは「失われた時を求めて」のもともとの総題で、ここで描かれる「本当の祖母」の存在は現存在(人間)と世界、認識、記憶、時間の関係を美しく、切なく描き出すのである。


第一章

 

 招待されているのか、いないのか、結局よくわからないまま《私》はゲルマント大公夫人の夜会に出かける。ゲルマント大公邸の前で《私》はシャーテルロー公爵を見かけるが、彼も実はソドムの男である。《私》が夜会に現れ、ユイシエ(訪問者の名を大声で叫ぶ取次係)が《私》の名を告げると、ゲルマント大公夫人は席を立って《私》を迎えてくれる。それは身分の低い者への貴族的な思い遣りと優越感によるものなのだが、とにかく、スワン夫人のサロン、ヴィルパリジ侯爵夫人のサロン、ゲルマント侯爵夫人の晩餐会と社交界のレヴェルを上ってきた《私》にとって、この夜会に足を踏み入れることは一つの勝利なのであった。
 ゲルマント大公夫人の夜会では《私》はシャンゼリゼで倒れた祖母を診てもらったE…教授に出あったり(祖母の死を聞いた彼は自分の診立てが間違っていなかったことを誇るような様子を見せる)、シャルリュス男爵にゲルマント大公への紹介を頼んで冷たく断られたり、どこかしら女性的なヴォーグベール侯爵と逆に男性的なその夫人の姿を眺めたりする。また、シャルリュス男爵は以前は同性愛者だったヴォーグベール侯爵にどこの誰がソドミストであるかというゴシップを面白がって話す(ソドミストは自分以外のソドミストをこき下ろすことによって自分への疑いを晴らすのだと《私》は考察する)。
 そうしているうちに夜会にはサン=トゥーヴェルト侯爵夫人やスワン、ゲルマント公爵夫妻などの歴々が次々と現れる。病身のスワンは自分が死ぬ前にゲルマント公爵夫人に妻と娘ひきあわせたいと思っているが、ゲルマント公爵夫人はスキャンダラスな女オデットに会おうとはしない。一方、ユダヤ人でドレフュス派のスワンに対して、ゲルマント大公は自分がドレフュス派に転向したことを告白し、大公夫人はドレフュスのためにミサをあげていたことを打ち明ける。(社交会での反ドレフュス派とドレフュス派の趨勢は徐々に逆転してゆく。そのことによって、後に社交界の勢力図は大きく書き換えられることになる)
 夜会を退席した《私》はゲルマント公爵夫妻の馬車に乗せてもらって家に帰る。その夜アルベルチーヌが彼の家にやって来ることになっていたので、《私》は彼女が来る前に帰っておきたかったのである。しかし、アルベルチーヌは電話で、遅いから今夜は特に用事がなければ行かないと告げてくる。彼女の言葉に何となく嘘を感じた《私》は今日でなければ駄目だと言い、アルベルチーヌはやむを得ずやって来る。《私》は思わせぶりに初恋のジルベルトに手紙を書いていたようなふりをしてアルベルチーヌを迎え入れる。《私》は彼女への疑惑を問いただそうかとも思うが、夜も遅いのでてっとりばやく接吻を楽しむことにする。アルベルチーヌはもはや接吻を拒むどころか、それに快楽を感じているような様を見せるのだった。

 

 


心情の間歇

 

 

《私》は二度目のバルベックにやって来る。少し前にサン=ルーからピュトビュス夫人の小間使い「ジョルジョーネ(ジョルジョーネの絵画から付けられたあだ名)」がゴモラの女であり、また性的に奔放であるという話を聞いた《私》は、主人とともにバルベックにやって来ている彼女に何とか接触したいと思っている。それはバルベックで別荘を借りているヴェルデュラン夫妻を訪問することとともに、今回のバルベック旅行の大きな理由であった。
《私》を迎えるバルベック・グランドホテルの支配人は以前よりも愛想がよくなり「部屋の格が下がって恐縮」だと言うが、それは前回とおなじ部屋であり、彼にとっての《私》の評価が上がったことが理解される。

 到着第一日目の夜《私》は部屋で靴を脱ごうと身を屈めるが、その瞬間、《私》の胸は「神々しい未知の存在に満たされ」目から涙がはらはらとあふれ出る。その瞬間、《私》の心には祖母の記憶が間歇的に甦っていたのである。
「あたかも時間には異なった系列が並行して存在しているかのように」、《私》が身を屈めた瞬間は祖母が以前私の方に身をかがめた瞬間にぴったりと一致したのであり、祖母が死んで以来はじめて《私》は彼女の活き活きとした現実を再び見出したのである。《私》は以前のその瞬間に、祖母に会いたくて会いたくてたまらなかった欲求も思いだすが、今となっては壁を三度たたいても彼女はやって来てくれないことを《私》は知っているのである。そして《私》は「死者は生きている」こと、時間というものが必ずしも一直線なものではないことを直感するのである。(これはこの物語の結論の先駆である)


 


第二章

 

 

 祖母を思う《私》の悲しみも徐々に薄れてゆき、《私》は再びバルベック滞在中のアルベルチーヌへの欲求を見出すようになる。もはや《私》はアルベルチーヌを愛していなかったので《私》の欲望は以前のようなものとは違って、嫉妬や独占欲によって生ずる種類のものなのであった。
《私》がフランソワーズやホテルのエレベーターボーイに頼んでアルベルチーヌを呼んできてもらっても、彼女は来なかったり、来るのに異常に時間がかかったりして、《私》の疑惑をかき立てる。また、「おともだちとの約束があるから」と言って《私》の部屋を去ろうとするアルベルチーヌにその約束について色々質問すると、彼女の答えは矛盾と嘘に満ちているのであった。(もしアルベルチーヌを本当に愛するようになったら、さまざまな苦悩が待ち受けているのだろうと《私》は思う)
 ある日、電車の故障のためにバルベック近郊のアンカルヴィルの駅で足止めを食った《私》は、そこで偶然出会ったコタール医師とともにカジノで暇を潰すことにする。そこはアルベルチーヌたち「花咲く乙女たち」がよく遊びに来る場所であり、その日も彼女たちはやって来てダンスを踊っていたが、コタールは彼女たちが乳房と乳房をぴったりとくっつけて踊っているさまを観察し、彼女らが性的な快楽を味わっていることを《私》に指摘する。また別の日、アルベルチーヌとともにカジノにいた《私》は、鏡をじっと見ている彼女に気付く。彼女の視線を追うと、その先には品行の悪い女達がいるのであった。
 このようにして《私》のアルベルチーヌへの疑惑は男のみならず女にまで広がってゆき、《私》は彼女に対して故意に意地悪な態度をとりはじめるようになる。
 数日後、アルベルチーヌは《私》の部屋に意地悪な態度についての文句を言いにやって来る。《私》は彼女の気を惹くために「花咲く乙女たち」の一人のアンドレに恋をしているという嘘の告白をし、彼女たちがゴモラの関係にあるのかどうかをたずねる。アルベルチーヌはその疑惑をきっぱりと否定し、そして、彼女と《私》は和解する。

 ある日《私》とアルベルチーヌはドンシエールのサン=ルーを訪問し、その帰りに駅で一時間ほど電車を待つことになる。そこで《私》は同じく電車を待つシャルリュス男爵に出会う。彼は、自分の親戚に当たる一人の軍楽隊付の軍人が向かいのホームにいるので呼んで来てはくれまいかと《私》に頼む。依頼を引き受けた《私》はその軍人を呼びに行くが、その軍人は《私》の大叔父の従僕の息子、モレルだった(つまりシャルリュス男爵の親戚であるはずがないのである)。《私》は懐かしく思いモレルと歓談しようとするが、彼は自分の親の身分を思い出させる《私》を快く思わず、無愛想で横柄な態度を見せる。
 約束どうりモレルをシャルリュス男爵のところに連れていくと、男爵はモレルに「今夜音楽が聴きたくなったので五百フランで演奏しないか?」ともちかけるのだった。《私》はことの顛末が気になったが、シャルリュス男爵から大げさな別れの挨拶をされてしまうのでやむなく電車に乗り、出発する。その電車に乗るはずだったシャルリュス男爵は予定を変更してモレルとともに駅に残る。(モレルへの滑稽で悲哀に満ちたシャルリュス男爵の恋の物語がここから始まる)

 またバルベックでは、《私》はヴェルデュラン夫妻の晩餐会に赴く。ヴェルデュラン夫妻はシーズン中、カンブルメール侯爵家のバルベックの館「ラ・ラスプリエール荘」を借りて、以前の「小さな党」(コタール、スワン、オデットのいた)を再結成しているのだった。《私》はそこに何人かの上流社交界の人々がやってくるという噂を聞いていたが、そこにやってくる貴族は館の持ち主のカンブルメール侯爵夫妻や、「ヴェルデュランのサロン・音楽の殿堂」のヴァイオリニストであるモレルを追い掛け回しているシャルリュス男爵ぐらいだった。このサロンの構成員はほとんどが下らないスノブ連中なので、ここでの会話や冗談はゲルマント家のそれ以上にくだらない、虚飾に満ちたものとして描かれる。


 

 

第三章

 

 

 ここでは特にシャルリュス男爵のモレルへの恋が描かれる。
 モレルは物質的にシャルリュス男爵にまったく依存していながらも、冷たい態度や不実で男爵を悲しませている。男爵は偽りの決闘の計画をモレルに伝えて彼の気を惹こうとしたり、モレルがゲルマント大公のお供で出入りしている娼館に忍び込んだりする。ここは「失われた時を求めて」の中でも際立って喜劇的な部分であり、非常に面白い部分であるので、是非本文の面白さを味わって欲しい部分である。


 

 

第四章

 

 

 アルベルチーヌに飽きた《私》は、彼女との決定的な絶交の機会を待つばかりであった。《私》は母にアルベルチーヌとの結婚はおろか近々会うのもやめると言い、その決意に母は大変満足する。
 そんな状況下、ラ・ラスプリエール荘からバルベックへの帰る電車の中で《私》はアルベルチーヌがヴァントゥィユ孃とその女友だち(「スワン家の方へ」で父の写真を冒涜して快楽を味わっていたゴモラの女達)と親しいこと、そして、近いうちに彼女らと旅行に行く計画があることを聞く。
 その計画を何としても阻止しなければならないと思った《私》はその夜、アルベルチーヌを自分の部屋に連れ込んで、パリに帰って自分と一緒に暮らそうと説き伏せる。

 そして、愛してもいないアルベルチーヌとの結婚を《私》は母に突然宣言し、物語は「失われた時を求めて」後半に突入する。

 

 

 

<第五篇につづく>

 

 

 

男と女は それぞれ 自分の場所で死ぬだろう

 

「ソドムとゴモラ」は「失われた時を求めて」の丁度中間地点にあたる、物語の前半部と後半部を分ける大きな転回点である。この篇の頭には「天の火から逃れたソドムの住民の末裔たる女=男達の最初の出現」という辞がつけられており、この篇において《私》はソドムとゴモラの町の復興をある人々のうちに見出す最初の第一歩を踏み出す。
 ソドムとゴモラとは旧約聖書に登場する退廃と享楽の町――あまりの堕落ぶりに神の火によって燃えつくされた町――のことであり、本篇の「一」でなされるソドミスト=男性同性愛者の恋愛についての考察は、プルーストの恋愛についての直感を大いに明らかにするものである。(彼の考察は同性愛の個別的側面にとどまるものではなく、普遍的な恋愛の本質にまでも迫る)
「ソドムとゴモラ」は一と二に分けられており、一は初版では「ゲルマントの方」の巻末に収められていたごく短い部分である。ここでは「ゲルマントの方」の終盤でゲルマント公爵夫妻を待っていたときに《私》が目撃した、ある重大な発見について語られる。

 

 

 

 ゲルマント公爵夫妻を待ち伏せしていた時、《私》はシャルリュス男爵がヴィルパリジ侯爵夫人邸の表戸口から出てくる姿を目にする。《私》に眺められていることを知らず、太陽に照らされた自然な彼の姿に《私》は何故か女性の姿を連想してしまう(どうして女性を連想してしまったのかはこの直後に《私》の理解するところとなる)。
シャルリュス男爵はゲルマント邸の中庭を歩いている時にゲルマント邸の一角でチョッキ屋を営む中年男ジュピアンと出くわすが(普段シャルリュス男爵は午後遅くにやっ来るので、今までジュピアンとは会ったことがなかったのだった)、その途端、彼の目はジュピアンに釘付けになり、ジュピアンも彼をじっと見つめかえす。シャルリュス男爵は瞳の美しさを強調するように虚空を見つめ、こっけいな、艶めかしい様子を見せる。彼とは対照的にジュピアンは腰に手をあてがい、尻を突きだし、「みつ蜂に対して蘭の花がするような」色っぽい様子を見せる。
《私》に見られていることも知らず、二人はちょっとした言葉を交わしてからジュピアンの店に入ってゆく。店のなかで何が起こっているのか気になった《私》はジュピアンの店の隣の空店舗に忍び込み、二人の様子を窺う。するとジュピアンの店からは激しいうめき声と、それより一オクターヴ高い別のうめき声が聞こえてくる――つまり実は二人はソドミストで、会った瞬間に互いが同類であるということを嗅ぎ分けた二人は早くも性交渉を行っていたのである。
 そして《私》はソドミストの恋愛についての考察を展開する。彼らが孤独な存在であること、彼らが自己のうちに女性と男性の両方を見出しているということ、そして、彼らは愛に希望をかければこそ多くの困難や危険に耐えうるのに、その愛の可能性がほとんど閉ざされた恋人たちであるということ――を《私》は考え、ヴィニーの詩「サムソンの怒り」から次のような引用を添える。

 


 男と女は それぞれ 自分の場所で死ぬだろう

 

 

「ソドムとゴモラ」の後半部は四章にわかれており、一章と二章のあいだには「心情の間歇」という挿話が挿入されている。「心情の間歇」というのは「失われた時を求めて」のもともとの総題で、ここで描かれる「本当の祖母」の存在は現存在(人間)と世界、認識、記憶、時間の関係を美しく、切なく描き出すのである。


第一章

 

 招待されているのか、いないのか、結局よくわからないまま《私》はゲルマント大公夫人の夜会に出かける。ゲルマント大公邸の前で《私》はシャーテルロー公爵を見かけるが、彼も実はソドムの男である。《私》が夜会に現れ、ユイシエ(訪問者の名を大声で叫ぶ取次係)が《私》の名を告げると、ゲルマント大公夫人は席を立って《私》を迎えてくれる。それは身分の低い者への貴族的な思い遣りと優越感によるものなのだが、とにかく、スワン夫人のサロン、ヴィルパリジ侯爵夫人のサロン、ゲルマント侯爵夫人の晩餐会と社交界のレヴェルを上ってきた《私》にとって、この夜会に足を踏み入れることは一つの勝利なのであった。
 ゲルマント大公夫人の夜会では《私》はシャンゼリゼで倒れた祖母を診てもらったE…教授に出あったり(祖母の死を聞いた彼は自分の診立てが間違っていなかったことを誇るような様子を見せる)、シャルリュス男爵にゲルマント大公への紹介を頼んで冷たく断られたり、どこかしら女性的なヴォーグベール侯爵と逆に男性的なその夫人の姿を眺めたりする。また、シャルリュス男爵は以前は同性愛者だったヴォーグベール侯爵にどこの誰がソドミストであるかというゴシップを面白がって話す(ソドミストは自分以外のソドミストをこき下ろすことによって自分への疑いを晴らすのだと《私》は考察する)。
 そうしているうちに夜会にはサン=トゥーヴェルト侯爵夫人やスワン、ゲルマント公爵夫妻などの歴々が次々と現れる。病身のスワンは自分が死ぬ前にゲルマント公爵夫人に妻と娘ひきあわせたいと思っているが、ゲルマント公爵夫人はスキャンダラスな女オデットに会おうとはしない。一方、ユダヤ人でドレフュス派のスワンに対して、ゲルマント大公は自分がドレフュス派に転向したことを告白し、大公夫人はドレフュスのためにミサをあげていたことを打ち明ける。(社交会での反ドレフュス派とドレフュス派の趨勢は徐々に逆転してゆく。そのことによって、後に社交界の勢力図は大きく書き換えられることになる)
 夜会を退席した《私》はゲルマント公爵夫妻の馬車に乗せてもらって家に帰る。その夜アルベルチーヌが彼の家にやって来ることになっていたので、《私》は彼女が来る前に帰っておきたかったのである。しかし、アルベルチーヌは電話で、遅いから今夜は特に用事がなければ行かないと告げてくる。彼女の言葉に何となく嘘を感じた《私》は今日でなければ駄目だと言い、アルベルチーヌはやむを得ずやって来る。《私》は思わせぶりに初恋のジルベルトに手紙を書いていたようなふりをしてアルベルチーヌを迎え入れる。《私》は彼女への疑惑を問いただそうかとも思うが、夜も遅いのでてっとりばやく接吻を楽しむことにする。アルベルチーヌはもはや接吻を拒むどころか、それに快楽を感じているような様を見せるのだった。

 

 


心情の間歇

 

 

《私》は二度目のバルベックにやって来る。少し前にサン=ルーからピュトビュス夫人の小間使い「ジョルジョーネ(ジョルジョーネの絵画から付けられたあだ名)」がゴモラの女であり、また性的に奔放であるという話を聞いた《私》は、主人とともにバルベックにやって来ている彼女に何とか接触したいと思っている。それはバルベックで別荘を借りているヴェルデュラン夫妻を訪問することとともに、今回のバルベック旅行の大きな理由であった。
《私》を迎えるバルベック・グランドホテルの支配人は以前よりも愛想がよくなり「部屋の格が下がって恐縮」だと言うが、それは前回とおなじ部屋であり、彼にとっての《私》の評価が上がったことが理解される。

 到着第一日目の夜《私》は部屋で靴を脱ごうと身を屈めるが、その瞬間、《私》の胸は「神々しい未知の存在に満たされ」目から涙がはらはらとあふれ出る。その瞬間、《私》の心には祖母の記憶が間歇的に甦っていたのである。
「あたかも時間には異なった系列が並行して存在しているかのように」、《私》が身を屈めた瞬間は祖母が以前私の方に身をかがめた瞬間にぴったりと一致したのであり、祖母が死んで以来はじめて《私》は彼女の活き活きとした現実を再び見出したのである。《私》は以前のその瞬間に、祖母に会いたくて会いたくてたまらなかった欲求も思いだすが、今となっては壁を三度たたいても彼女はやって来てくれないことを《私》は知っているのである。そして《私》は「死者は生きている」こと、時間というものが必ずしも一直線なものではないことを直感するのである。(これはこの物語の結論の先駆である)


 


第二章

 

 

 祖母を思う《私》の悲しみも徐々に薄れてゆき、《私》は再びバルベック滞在中のアルベルチーヌへの欲求を見出すようになる。もはや《私》はアルベルチーヌを愛していなかったので《私》の欲望は以前のようなものとは違って、嫉妬や独占欲によって生ずる種類のものなのであった。
《私》がフランソワーズやホテルのエレベーターボーイに頼んでアルベルチーヌを呼んできてもらっても、彼女は来なかったり、来るのに異常に時間がかかったりして、《私》の疑惑をかき立てる。また、「おともだちとの約束があるから」と言って《私》の部屋を去ろうとするアルベルチーヌにその約束について色々質問すると、彼女の答えは矛盾と嘘に満ちているのであった。(もしアルベルチーヌを本当に愛するようになったら、さまざまな苦悩が待ち受けているのだろうと《私》は思う)
 ある日、電車の故障のためにバルベック近郊のアンカルヴィルの駅で足止めを食った《私》は、そこで偶然出会ったコタール医師とともにカジノで暇を潰すことにする。そこはアルベルチーヌたち「花咲く乙女たち」がよく遊びに来る場所であり、その日も彼女たちはやって来てダンスを踊っていたが、コタールは彼女たちが乳房と乳房をぴったりとくっつけて踊っているさまを観察し、彼女らが性的な快楽を味わっていることを《私》に指摘する。また別の日、アルベルチーヌとともにカジノにいた《私》は、鏡をじっと見ている彼女に気付く。彼女の視線を追うと、その先には品行の悪い女達がいるのであった。
 このようにして《私》のアルベルチーヌへの疑惑は男のみならず女にまで広がってゆき、《私》は彼女に対して故意に意地悪な態度をとりはじめるようになる。
 数日後、アルベルチーヌは《私》の部屋に意地悪な態度についての文句を言いにやって来る。《私》は彼女の気を惹くために「花咲く乙女たち」の一人のアンドレに恋をしているという嘘の告白をし、彼女たちがゴモラの関係にあるのかどうかをたずねる。アルベルチーヌはその疑惑をきっぱりと否定し、そして、彼女と《私》は和解する。

 ある日《私》とアルベルチーヌはドンシエールのサン=ルーを訪問し、その帰りに駅で一時間ほど電車を待つことになる。そこで《私》は同じく電車を待つシャルリュス男爵に出会う。彼は、自分の親戚に当たる一人の軍楽隊付の軍人が向かいのホームにいるので呼んで来てはくれまいかと《私》に頼む。依頼を引き受けた《私》はその軍人を呼びに行くが、その軍人は《私》の大叔父の従僕の息子、モレルだった(つまりシャルリュス男爵の親戚であるはずがないのである)。《私》は懐かしく思いモレルと歓談しようとするが、彼は自分の親の身分を思い出させる《私》を快く思わず、無愛想で横柄な態度を見せる。
 約束どうりモレルをシャルリュス男爵のところに連れていくと、男爵はモレルに「今夜音楽が聴きたくなったので五百フランで演奏しないか?」ともちかけるのだった。《私》はことの顛末が気になったが、シャルリュス男爵から大げさな別れの挨拶をされてしまうのでやむなく電車に乗り、出発する。その電車に乗るはずだったシャルリュス男爵は予定を変更してモレルとともに駅に残る。(モレルへの滑稽で悲哀に満ちたシャルリュス男爵の恋の物語がここから始まる)

 またバルベックでは、《私》はヴェルデュラン夫妻の晩餐会に赴く。ヴェルデュラン夫妻はシーズン中、カンブルメール侯爵家のバルベックの館「ラ・ラスプリエール荘」を借りて、以前の「小さな党」(コタール、スワン、オデットのいた)を再結成しているのだった。《私》はそこに何人かの上流社交界の人々がやってくるという噂を聞いていたが、そこにやってくる貴族は館の持ち主のカンブルメール侯爵夫妻や、「ヴェルデュランのサロン・音楽の殿堂」のヴァイオリニストであるモレルを追い掛け回しているシャルリュス男爵ぐらいだった。このサロンの構成員はほとんどが下らないスノブ連中なので、ここでの会話や冗談はゲルマント家のそれ以上にくだらない、虚飾に満ちたものとして描かれる。


 

 

第三章

 

 

 ここでは特にシャルリュス男爵のモレルへの恋が描かれる。
 モレルは物質的にシャルリュス男爵にまったく依存していながらも、冷たい態度や不実で男爵を悲しませている。男爵は偽りの決闘の計画をモレルに伝えて彼の気を惹こうとしたり、モレルがゲルマント大公のお供で出入りしている娼館に忍び込んだりする。ここは「失われた時を求めて」の中でも際立って喜劇的な部分であり、非常に面白い部分であるので、是非本文の面白さを味わって欲しい部分である。


 

 

第四章

 

 

 アルベルチーヌに飽きた《私》は、彼女との決定的な絶交の機会を待つばかりであった。《私》は母にアルベルチーヌとの結婚はおろか近々会うのもやめると言い、その決意に母は大変満足する。
 そんな状況下、ラ・ラスプリエール荘からバルベックへの帰る電車の中で《私》はアルベルチーヌがヴァントゥィユ孃とその女友だち(「スワン家の方へ」で父の写真を冒涜して快楽を味わっていたゴモラの女達)と親しいこと、そして、近いうちに彼女らと旅行に行く計画があることを聞く。
 その計画を何としても阻止しなければならないと思った《私》はその夜、アルベルチーヌを自分の部屋に連れ込んで、パリに帰って自分と一緒に暮らそうと説き伏せる。

 そして、愛してもいないアルベルチーヌとの結婚を《私》は母に突然宣言し、物語は「失われた時を求めて」後半に突入する。

 

 

 

<第五篇につづく>

 

 

 

男と女は それぞれ 自分の場所で死ぬだろう

 

「ソドムとゴモラ」は「失われた時を求めて」の丁度中間地点にあたる、物語の前半部と後半部を分ける大きな転回点である。この篇の頭には「天の火から逃れたソドムの住民の末裔たる女=男達の最初の出現」という辞がつけられており、この篇において《私》はソドムとゴモラの町の復興をある人々のうちに見出す最初の第一歩を踏み出す。
 ソドムとゴモラとは旧約聖書に登場する退廃と享楽の町――あまりの堕落ぶりに神の火によって燃えつくされた町――のことであり、本篇の「一」でなされるソドミスト=男性同性愛者の恋愛についての考察は、プルーストの恋愛についての直感を大いに明らかにするものである。(彼の考察は同性愛の個別的側面にとどまるものではなく、普遍的な恋愛の本質にまでも迫る)
「ソドムとゴモラ」は一と二に分けられており、一は初版では「ゲルマントの方」の巻末に収められていたごく短い部分である。ここでは「ゲルマントの方」の終盤でゲルマント公爵夫妻を待っていたときに《私》が目撃した、ある重大な発見について語られる。

 

 

 

 ゲルマント公爵夫妻を待ち伏せしていた時、《私》はシャルリュス男爵がヴィルパリジ侯爵夫人邸の表戸口から出てくる姿を目にする。《私》に眺められていることを知らず、太陽に照らされた自然な彼の姿に《私》は何故か女性の姿を連想してしまう(どうして女性を連想してしまったのかはこの直後に《私》の理解するところとなる)。
シャルリュス男爵はゲルマント邸の中庭を歩いている時にゲルマント邸の一角でチョッキ屋を営む中年男ジュピアンと出くわすが(普段シャルリュス男爵は午後遅くにやっ来るので、今までジュピアンとは会ったことがなかったのだった)、その途端、彼の目はジュピアンに釘付けになり、ジュピアンも彼をじっと見つめかえす。シャルリュス男爵は瞳の美しさを強調するように虚空を見つめ、こっけいな、艶めかしい様子を見せる。彼とは対照的にジュピアンは腰に手をあてがい、尻を突きだし、「みつ蜂に対して蘭の花がするような」色っぽい様子を見せる。
《私》に見られていることも知らず、二人はちょっとした言葉を交わしてからジュピアンの店に入ってゆく。店のなかで何が起こっているのか気になった《私》はジュピアンの店の隣の空店舗に忍び込み、二人の様子を窺う。するとジュピアンの店からは激しいうめき声と、それより一オクターヴ高い別のうめき声が聞こえてくる――つまり実は二人はソドミストで、会った瞬間に互いが同類であるということを嗅ぎ分けた二人は早くも性交渉を行っていたのである。
 そして《私》はソドミストの恋愛についての考察を展開する。彼らが孤独な存在であること、彼らが自己のうちに女性と男性の両方を見出しているということ、そして、彼らは愛に希望をかければこそ多くの困難や危険に耐えうるのに、その愛の可能性がほとんど閉ざされた恋人たちであるということ――を《私》は考え、ヴィニーの詩「サムソンの怒り」から次のような引用を添える。

 


 男と女は それぞれ 自分の場所で死ぬだろう

 

 

「ソドムとゴモラ」の後半部は四章にわかれており、一章と二章のあいだには「心情の間歇」という挿話が挿入されている。「心情の間歇」というのは「失われた時を求めて」のもともとの総題で、ここで描かれる「本当の祖母」の存在は現存在(人間)と世界、認識、記憶、時間の関係を美しく、切なく描き出すのである。


第一章

 

 招待されているのか、いないのか、結局よくわからないまま《私》はゲルマント大公夫人の夜会に出かける。ゲルマント大公邸の前で《私》はシャーテルロー公爵を見かけるが、彼も実はソドムの男である。《私》が夜会に現れ、ユイシエ(訪問者の名を大声で叫ぶ取次係)が《私》の名を告げると、ゲルマント大公夫人は席を立って《私》を迎えてくれる。それは身分の低い者への貴族的な思い遣りと優越感によるものなのだが、とにかく、スワン夫人のサロン、ヴィルパリジ侯爵夫人のサロン、ゲルマント侯爵夫人の晩餐会と社交界のレヴェルを上ってきた《私》にとって、この夜会に足を踏み入れることは一つの勝利なのであった。
 ゲルマント大公夫人の夜会では《私》はシャンゼリゼで倒れた祖母を診てもらったE…教授に出あったり(祖母の死を聞いた彼は自分の診立てが間違っていなかったことを誇るような様子を見せる)、シャルリュス男爵にゲルマント大公への紹介を頼んで冷たく断られたり、どこかしら女性的なヴォーグベール侯爵と逆に男性的なその夫人の姿を眺めたりする。また、シャルリュス男爵は以前は同性愛者だったヴォーグベール侯爵にどこの誰がソドミストであるかというゴシップを面白がって話す(ソドミストは自分以外のソドミストをこき下ろすことによって自分への疑いを晴らすのだと《私》は考察する)。
 そうしているうちに夜会にはサン=トゥーヴェルト侯爵夫人やスワン、ゲルマント公爵夫妻などの歴々が次々と現れる。病身のスワンは自分が死ぬ前にゲルマント公爵夫人に妻と娘ひきあわせたいと思っているが、ゲルマント公爵夫人はスキャンダラスな女オデットに会おうとはしない。一方、ユダヤ人でドレフュス派のスワンに対して、ゲルマント大公は自分がドレフュス派に転向したことを告白し、大公夫人はドレフュスのためにミサをあげていたことを打ち明ける。(社交会での反ドレフュス派とドレフュス派の趨勢は徐々に逆転してゆく。そのことによって、後に社交界の勢力図は大きく書き換えられることになる)
 夜会を退席した《私》はゲルマント公爵夫妻の馬車に乗せてもらって家に帰る。その夜アルベルチーヌが彼の家にやって来ることになっていたので、《私》は彼女が来る前に帰っておきたかったのである。しかし、アルベルチーヌは電話で、遅いから今夜は特に用事がなければ行かないと告げてくる。彼女の言葉に何となく嘘を感じた《私》は今日でなければ駄目だと言い、アルベルチーヌはやむを得ずやって来る。《私》は思わせぶりに初恋のジルベルトに手紙を書いていたようなふりをしてアルベルチーヌを迎え入れる。《私》は彼女への疑惑を問いただそうかとも思うが、夜も遅いのでてっとりばやく接吻を楽しむことにする。アルベルチーヌはもはや接吻を拒むどころか、それに快楽を感じているような様を見せるのだった。

 

 


心情の間歇

 

 

《私》は二度目のバルベックにやって来る。少し前にサン=ルーからピュトビュス夫人の小間使い「ジョルジョーネ(ジョルジョーネの絵画から付けられたあだ名)」がゴモラの女であり、また性的に奔放であるという話を聞いた《私》は、主人とともにバルベックにやって来ている彼女に何とか接触したいと思っている。それはバルベックで別荘を借りているヴェルデュラン夫妻を訪問することとともに、今回のバルベック旅行の大きな理由であった。
《私》を迎えるバルベック・グランドホテルの支配人は以前よりも愛想がよくなり「部屋の格が下がって恐縮」だと言うが、それは前回とおなじ部屋であり、彼にとっての《私》の評価が上がったことが理解される。

 到着第一日目の夜《私》は部屋で靴を脱ごうと身を屈めるが、その瞬間、《私》の胸は「神々しい未知の存在に満たされ」目から涙がはらはらとあふれ出る。その瞬間、《私》の心には祖母の記憶が間歇的に甦っていたのである。
「あたかも時間には異なった系列が並行して存在しているかのように」、《私》が身を屈めた瞬間は祖母が以前私の方に身をかがめた瞬間にぴったりと一致したのであり、祖母が死んで以来はじめて《私》は彼女の活き活きとした現実を再び見出したのである。《私》は以前のその瞬間に、祖母に会いたくて会いたくてたまらなかった欲求も思いだすが、今となっては壁を三度たたいても彼女はやって来てくれないことを《私》は知っているのである。そして《私》は「死者は生きている」こと、時間というものが必ずしも一直線なものではないことを直感するのである。(これはこの物語の結論の先駆である)


 


第二章

 

 

 祖母を思う《私》の悲しみも徐々に薄れてゆき、《私》は再びバルベック滞在中のアルベルチーヌへの欲求を見出すようになる。もはや《私》はアルベルチーヌを愛していなかったので《私》の欲望は以前のようなものとは違って、嫉妬や独占欲によって生ずる種類のものなのであった。
《私》がフランソワーズやホテルのエレベーターボーイに頼んでアルベルチーヌを呼んできてもらっても、彼女は来なかったり、来るのに異常に時間がかかったりして、《私》の疑惑をかき立てる。また、「おともだちとの約束があるから」と言って《私》の部屋を去ろうとするアルベルチーヌにその約束について色々質問すると、彼女の答えは矛盾と嘘に満ちているのであった。(もしアルベルチーヌを本当に愛するようになったら、さまざまな苦悩が待ち受けているのだろうと《私》は思う)
 ある日、電車の故障のためにバルベック近郊のアンカルヴィルの駅で足止めを食った《私》は、そこで偶然出会ったコタール医師とともにカジノで暇を潰すことにする。そこはアルベルチーヌたち「花咲く乙女たち」がよく遊びに来る場所であり、その日も彼女たちはやって来てダンスを踊っていたが、コタールは彼女たちが乳房と乳房をぴったりとくっつけて踊っているさまを観察し、彼女らが性的な快楽を味わっていることを《私》に指摘する。また別の日、アルベルチーヌとともにカジノにいた《私》は、鏡をじっと見ている彼女に気付く。彼女の視線を追うと、その先には品行の悪い女達がいるのであった。
 このようにして《私》のアルベルチーヌへの疑惑は男のみならず女にまで広がってゆき、《私》は彼女に対して故意に意地悪な態度をとりはじめるようになる。
 数日後、アルベルチーヌは《私》の部屋に意地悪な態度についての文句を言いにやって来る。《私》は彼女の気を惹くために「花咲く乙女たち」の一人のアンドレに恋をしているという嘘の告白をし、彼女たちがゴモラの関係にあるのかどうかをたずねる。アルベルチーヌはその疑惑をきっぱりと否定し、そして、彼女と《私》は和解する。

 ある日《私》とアルベルチーヌはドンシエールのサン=ルーを訪問し、その帰りに駅で一時間ほど電車を待つことになる。そこで《私》は同じく電車を待つシャルリュス男爵に出会う。彼は、自分の親戚に当たる一人の軍楽隊付の軍人が向かいのホームにいるので呼んで来てはくれまいかと《私》に頼む。依頼を引き受けた《私》はその軍人を呼びに行くが、その軍人は《私》の大叔父の従僕の息子、モレルだった(つまりシャルリュス男爵の親戚であるはずがないのである)。《私》は懐かしく思いモレルと歓談しようとするが、彼は自分の親の身分を思い出させる《私》を快く思わず、無愛想で横柄な態度を見せる。
 約束どうりモレルをシャルリュス男爵のところに連れていくと、男爵はモレルに「今夜音楽が聴きたくなったので五百フランで演奏しないか?」ともちかけるのだった。《私》はことの顛末が気になったが、シャルリュス男爵から大げさな別れの挨拶をされてしまうのでやむなく電車に乗り、出発する。その電車に乗るはずだったシャルリュス男爵は予定を変更してモレルとともに駅に残る。(モレルへの滑稽で悲哀に満ちたシャルリュス男爵の恋の物語がここから始まる)

 またバルベックでは、《私》はヴェルデュラン夫妻の晩餐会に赴く。ヴェルデュラン夫妻はシーズン中、カンブルメール侯爵家のバルベックの館「ラ・ラスプリエール荘」を借りて、以前の「小さな党」(コタール、スワン、オデットのいた)を再結成しているのだった。《私》はそこに何人かの上流社交界の人々がやってくるという噂を聞いていたが、そこにやってくる貴族は館の持ち主のカンブルメール侯爵夫妻や、「ヴェルデュランのサロン・音楽の殿堂」のヴァイオリニストであるモレルを追い掛け回しているシャルリュス男爵ぐらいだった。このサロンの構成員はほとんどが下らないスノブ連中なので、ここでの会話や冗談はゲルマント家のそれ以上にくだらない、虚飾に満ちたものとして描かれる。


 

 

第三章

 

 

 ここでは特にシャルリュス男爵のモレルへの恋が描かれる。
 モレルは物質的にシャルリュス男爵にまったく依存していながらも、冷たい態度や不実で男爵を悲しませている。男爵は偽りの決闘の計画をモレルに伝えて彼の気を惹こうとしたり、モレルがゲルマント大公のお供で出入りしている娼館に忍び込んだりする。ここは「失われた時を求めて」の中でも際立って喜劇的な部分であり、非常に面白い部分であるので、是非本文の面白さを味わって欲しい部分である。


 

 

第四章

 

 

 アルベルチーヌに飽きた《私》は、彼女との決定的な絶交の機会を待つばかりであった。《私》は母にアルベルチーヌとの結婚はおろか近々会うのもやめると言い、その決意に母は大変満足する。
 そんな状況下、ラ・ラスプリエール荘からバルベックへの帰る電車の中で《私》はアルベルチーヌがヴァントゥィユ孃とその女友だち(「スワン家の方へ」で父の写真を冒涜して快楽を味わっていたゴモラの女達)と親しいこと、そして、近いうちに彼女らと旅行に行く計画があることを聞く。
 その計画を何としても阻止しなければならないと思った《私》はその夜、アルベルチーヌを自分の部屋に連れ込んで、パリに帰って自分と一緒に暮らそうと説き伏せる。

 そして、愛してもいないアルベルチーヌとの結婚を《私》は母に突然宣言し、物語は「失われた時を求めて」後半に突入する。

 

 

 

<第五篇につづく>

 

 

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II. À l’ombre des jeunes filles en fleurs

 

 

III. Le Côté de Guermantes

 

 

IV. Sodome et Gomorrhe

 

 

V. La Prisonnière

 

 

VI. Albertine disparue

 

 

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花咲く乙女たちのかげに

 

 

III. Le Côté de Guermantes

 

 

IV. Sodome et Gomorrhe

 

 

V. La Prisonnière

 

 

VI. Albertine disparue

 

 

VII. Le Temps retrouvé

 

 

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I. Du côté de chez Swann

 

 

II. À l’ombre des jeunes filles en fleurs

 

 

花咲く乙女たちのかげに

 

 

III. Le Côté de Guermantes

 

 

IV. Sodome et Gomorrhe

 

 

V. La Prisonnière

 

 

VI. Albertine disparue

 

 

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